時間とは叢(くさむら)である。
—移動可能/複数化可能な植物の集合体としての公共圏
児童館の遊戯室を定点で観測し、そこに流れる時間をぼくたちは把握することができたとして、しかしそれは建築的な空間の時間であり、個人のあらゆる時間を把握するものではない。
時間とは、地から天に伸びる塔ではなく、様々な植物が伸びる叢である。塔としての時間の発明は、近代以降の産物であり、大きな物語に依拠するものであった。しかし、それはもはや有効期限の切れたシステムである。大きな物語に対して、小さな物語が叢をおりなす風景を現代だとして、私たちは叢としての時間を発明し、植物としての個人の時間を、叢の中に作っている。twitterのタイムラインは、まさに小さな物語の集合を示しているといえるだろう。
小さな物語たちは、互いに寄り添い、影響しあいながら叢を形成している。私たちは寄り添いの関係の網目の中に生まれ、小さな物語を形成し、誰(何)かと寄り添い、誰(何)かを産み落としていく。
しかし、個人の時間としての小さな物語は、植物のメタファーでは捉えきれない。私たちは「移動可能」であるからだ。私たちは隣り合う植物を選ぶことができ、また突然誰かに選ばれることもある。
さらに、私たちは個人で複数の時間を持つことができる。それはアイデンティティの問題でもあるといえるだろう。家族と過ごすときの私、友人と一緒にいるときの私、一人で論文を書くときの私、恋人といるときの私はそれぞれ別人である。それぞれ、友人や家族との共同作業によって生まれる時間軸である。またこれは個人からコミュニティのレベルに単位を引き上げて考えても通用する。
「移動可能」かつ「複数化可能」な物語を、私たちはいかようにもカスタマイズして生活することができる。
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