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2012/02/05

子どもと政治、経済、インターネット(1)

今日は中村児童館でフライヤーの写真撮影。「顔は映らないから!」という条件で30人超の中高生に協力してもらったけど、

最近中高生とmixiでやりとりをすることが多くなった。発見されて、マイミクになって、twitterと同期してたつぶやきにコメントが来るようになって、「明日やるよー」とか呼びかけると反応してくれるし、「中児わず!きょうもたのしかったー」とかつぶやいてくれてる。

単純に、みんな徐々にこの企画のこと楽しみ始めてくれてるなーと嬉しくなっていたところだったのだけど、ふとこれは、面白い/重大な問題をはらんでいるんじゃないか?と考えた。それは一体何か。

mixiは一応クローズドなSNSだし、15才未満はできないように規制されているけど、それでも個人は特定可能だ。彼らはほとんど無自覚なまま、いろんな人と共有できる喜びに従うまま、個人の名のもとに「小さな主体」として行動している。これは『リトル・ピープルの時代』で宇野常寛さんが言っていることでもあるけれど、SNSは誰もが「小さな父(政治的・経済的意思決定者)」になってしまうこの時代を象徴するシステムだ。

子どもとインターネットの問題を考えるとき、子どもがインターネットに関わるリスク(リスクAとする)を挙げることは容易にできる。個人が特定されることで犯罪に巻き込まれる可能性が増加する、個人の肖像権を侵害される二次使用がなされる、など。しかし、子どもがインターネットに関わらないリスク(リスクBとする)を挙げることは容易ではない。メディアリテラシーが育たない、新しいコミュニケーションの仕組みに身体がなじまない、など、より複雑な問題になってくる。

ぼくは子どもがツイッターをやることなどは賛成だし、どんどんやれーという考え方なのだが、それによって「小さな父」にならざるを得ない人々は、公私の区別がなくなり、複数の居場所が均質化していくようになると、アイデンティティが硬直し、すごく生きづらくなるんじゃないか、と思うわけです。息苦しいというか。その予防策として、ナデガタを児童館に招待して、今はよくわからなかったとしても別のグルーヴ感を憶えさせておくのはよいことだと思っているのですが、予防するも何も彼や彼女たちは「リトル・ピープルの時代」におけるグルーヴの捕まえ方を自ら編み出していくのでしょうけれど。

あれ?なんか書きたかったことと違ってきたな。いずれにせよ、公私混同の状況の中に、「子どもとアーティストが出会う」という出来事も飛び込んでいく事になるだろうと思っています。

続く。


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