今日はこーじさんの中村小劇場。Y時のはなしの夢のシーンの稽古をする、ってことになったんだけど、1人途中でやりたくなくなっちゃった子がいた。最後は結局やってたけど、彼らの意志のありようを、もう少し作りこんでいきたいなぁと思う。
アーティスト・イン・児童館の企画に参加する子どもたちは、何かを予感して唐突に決意をする。面白そうという予感とか、やってみたいという希望の根拠は整理ないくらいいろいろある。裏を返せば、あんまりない。
しかし、そのあとに、予感したこととは違っていたり、不安になることもあったりとかして、彼らの気分はこれまた唐突に重たくなったりする。子どもたちにとっての「気分」とは、自分では制御できない自分の外側からところから訪れるものだと思う。何かを楽しみにしているときはグルーヴに流され、何かに不満をもっているときは得体の知れない重さに沈められていく。大人は、経験を参照したり、言葉を駆使したりして、「これが原因で落ち込んでいるから、こういうふうに考えよう」とか、「こういうことが自分にとって楽しみなんだな」と感情を言葉を使って整理することができたりする。子どもはそれができないからダメというわけではなく、そういう言葉の使い方じゃない生き方を体現しているという意味で。
彼らの身体に流れたりのしかかったりする、なんだかわからない気分だか気運だかに翻弄されながら、快快のメンバーは彼らの意志を信じて、一緒に舞台に立つ場面を想像しながら、制作をすすめている。子どもたちが舞台に立たないことを選択するかもしれないし、環境が彼らの意志に関係なく可能性を断つ場合もある。風邪をひいちゃったりとか、家族の用事とか、どうしてもやりたくなくなっちゃうとか。一度決意したらもう出演する以外の未来はない!というわけではなくて、そこは環境や本人の意志に委ねられる。ここに義務はなく、あるのは彼らの意志と、それを叶える/叶えないを決める環境であり、それを運命と呼んだりもするわけで。
その先に何があるのかといえば、舞台に立ち人に観られるという経験が待っている。もちろん、その経験が至上のものだ!というわけではなく、もしそれがかなわなかったとしても、今回はできなかったけど次回は、とか、観客として楽しむとか、彼らの人生に多様な可能性と経験を与えていることにほかならない。次回はやりたい!という雪辱にも似た気持ちを持つことは希望だし、自分は観客のほうがいいやという気持ちは見る目を養うし、演劇なんて大嫌いだ!という感情はそれを抱えて生きる人にしか見えない風景をもたらす。どれも、どうなっても、いいことだ。
舞台に立ちたいという意志をもち、環境に選ばれた子どもたちは、ホールに現れた百何十人の観客のまえで自分の身体をつかって表現をする。これは彼らにとって日常の遊びからのワープの体験であり、それはいつもの教室や家や遊び場とは違う、いったいなんだかわからない価値体系の中に居ることになる。面白おかしいコスチュームを着て大きな声でヘンテコなセリフをいうことは、日常では奇妙で忌避されることであっても、舞台ではそれが賞賛される。遊びの中でウケ狙いで芝居めいたことをやることはあったとしても、舞台ではそれをガチンコでやらなきゃいけない。舞台でもウケを狙うが、それはオフザケではなくガチ。
それに加え快快というチームの面白さは木村覚さんの言うように(※)、"役者が「役者」であることから半分降りて当人として舞台上に上がっているようにも見える"ところにある。児童館では快快のメンバーは(個々人が強烈な個性を持つことは間違いないが)子ども向けにキャラづくりも特にしていないし、稽古をするときでも、役になりきっているというよりは、その役を演じている本人、として演劇をしている。児童館の子どもたちは、役者として舞台に立っている山崎皓司や野上絹代や竹田靖ではなく、友だちなのか先生なのかよくわからない大人として出会っていて、そういう不思議な間柄で仲良くなっている。そういう大人たちが舞台にたって演劇をしているものだから、たぶんそこが舞台なのか児童館で遊んでいるのの延長なのか、明確な分別がないままに公演を終えることになるだろう。
舞台というよくわからない価値体系の場所と、日常の遊び場が入り交じっていき、そしてそれが作品として見知らぬ他者に見られたり批評されたりするという不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。またひょんなきっかけで彼らの前に旅路が開かれることがあるかも知れないし、もう無いかも知れないし、旅がしたくなったら自分で旅に出るかもしれない。
いま、快快プロジェクト『Y時のはなし』は本番3週間前を迎え、軽いも重たいも楽しいも不安も、うねりながら12月1日の初日に向かっている。気がする。
臼井隆志
※快快『りんご』:artscapeレビュー/プレビュー
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