子どもと日々接するなかで思うことは、彼らは毎日倒錯した欲望にかられていて、嘘をついたり騙したり虚勢をはったり、人と違う姿でありたいと願うあまり他人に迷惑をかけたおしたりして、暮らしている。かと思ったら足並みを揃えたり、先生の言うことをちゃんと守るお手本のような子もいる。
子どもが事実をでっちあげているところに、何度か出会ったことがある。現実って幻想なんだっけ?とそのたびに思う。そっかぼくたちは世界を都合良く解釈して生きてるんだなとか。
ぼく自身にもそういうしょーもない嘘をついてしまった経験はごまんとある。それによってどんよりしていく気持ちを知っている。誠実に正直に嘘をつかずに生きていることの気持ちよさもよくわかっているつもりだ。だから、そういう嘘をつく子には嘘の持つ悪さを伝えたいと思っているし、そうしないほうが気持ちよく生きていけることをわかってほしいと思っているんだけど、そのことを話そうとすると、「先生」と「生徒」のロールプレイになってしまって、彼は「はい」「はい」といって話を聞いている(振る舞いをちゃんとしている)のだけど、ぼくの言葉は彼の心には響かない。「説教」という日常にありふれてしまった場面の再生でしかなくて、そこで交わされる言葉には情動はない。あるいはぼくが情熱的に語ったとしても、説教されモードにすぐ入ってしまって、彼の心は動かない。というジレンマがある。
「一つの嘘を隠すには、約30の嘘が必要だといわれているんだ」
というのは、『約30の嘘』っていう映画のセリフで、それだけしょうもなく罪を重ねてしまうことになっていくし、その小さな重なりは、自分の体を少しずつ重たくしていくし、なんか嫌な臭いがするようにもなってくる。
そうなってほしくないので、彼には何か別の体験が必要なんだなと思う。虚勢のために生きなくても、自分がおもしろいと思うことに没頭したり、自分がいいと思えるものをいつだって信じられるようになったり、そういうことが。それは大人が彼に経験を与えるっていうことじゃなくて、むしろ誰かとの偶然の出会いや関係性の中で開かれていくものだろうから、そういった出会いが彼にあることを願うばかりだ。
そういえば今日の帰りの池袋の構内で、壁に寄りかかって話す男女を見かけた。よくある光景だけど、多分その二人はまだ付き合ってなくて、でもお互いのことを素敵だなと思っていて、それを伝えあおうとしているラブ始まっちゃいましたムードがとにかく濃くて驚いた。
恋愛は顕著だよな、関係性の中で開かれる新しい自分みたいなのと、そこが未知だけど楽しくなっちゃう感じ。とにかく面白くてグルーヴィーな恋愛にはいつだってムードがあるし、それがなくなったら情動の交換のない、停止したロールプレイがあるだけなんだろう。
ウォン・カーウァイの『花様年華』はとにかくそのムードを描いた映画だけど、妙に観たくなってしまった。
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