8月20日(水)、練馬まちづくりセンター主催のシンポジウムに参加させてもらった。その主軸は、ドイツ・ミュンヘンで行われている「子ども青少年フォーラム」の話を、その運営を担当されている「子どもの参画専門員」であるヤーナ・フレードリッヒさんの講演。
ドイツでは「子どもの権利条約」に則って、遊び場を新設・改築するときは必ず子どもの意見を取り入れることが法律で制定されているらしい。こうした背景からおこなわれている「子ども青少年フォーラム」は、遊び場や図書館のような公共施設、交通や地域コミュニティの課題など、様々な課題について子どもたちが議論し、大人に議会で提案し、可決されれば大人がそれを実現させる、かなり実際的な活動だった。ヤーナさんたち「子どもの参画専門員」は市役所の公務員であり、行政がこの活動をNPOと協働しながら主催している。
「子ども青少年フォーラム」のプロセス
おおまかなプロセスは、こんなかんじだ。
まず、広報活動。リーフレットを配布したり、学校に出張授業にいったりして、「子どもの社会参画」の意味を伝える。そこで関心をもった子どもたちが放課後の時間にワークショップに参加する。
ワークショップでは、まちの様々な課題について議論が行われる。問題を解決する具体的な提案を子どもたちがつくっていく。たとえば公園の改築案や、交通事故の問題解決についてなど。
リサーチでは、様々なキットの入ったスーツケースを持って、現場の視察を行う。子どもたちが街に住む人に取材をし、ワークショップで生まれた提案をブラッシュアップしていく。このスーツケースの中身については後述します。
そしてフォーラム。こうしてつくられてきた提案を審議する。大人の議員もいて、子どもたちに現状を説明したり、子どもたちの提案について質問をしたりする。こうしたプロフセスを経て、子どもの提案の可否が問われる。可決された提案は、その場でその担当の大人が、子どもたちによって決められる。「実現させます!」ということを、大人が子どもに約束する。
こうして、子どもたちのアイデアが取り入れられることで子どもが楽しく暮らせる街になり、また自治の感覚が育まれることでよりよい民主主義的な政治が市民によって行われることになる、というわけだ。
「子どもの社会参画」って説教くさいしつまんなそう
とはいえ、日本語で「子どもの社会参画」と聞くと、なんとなく説教臭い感じがするし、大人の都合に付き合わされてる子どもの姿を想像してしまう。最初にこの話を聞いた時、中学生のころにあった「子ども議会」のようなものを思い出した。役所の議会で子どもたちが遊び場の課題や、いじめの問題などについて作文を発表するというようなイベントだったと思う。
その作文は提案ではなく、なにか施策として実現されるわけではない。学級委員的な「いい子」が学校の代表として選出され、予め先生とつくった作文を読み上げるという感じのやつだった。子ども自身が楽しくてやっているというよりは、大人の都合に我慢して付き合っている、それをやると学校代表っていうステータスになる、みたいな。
しかし、ミュンヘンの事例はそうではなかった。写真で見る子どもたちは楽しそうに、そして責任感のある表情をして活動をしていた。なぜ・・・?その謎をとくカギは、講演と、その後の懇親会でヤーナさんに直接聞いた話にあった。
ここから先は、ぼくの間違いだらけの理解と解釈というか妄想含むので、正しいものとは違うかもしれません。
誰かと共に生きる物語世界へ
まず最初の驚きは、子どもに社会参画の意味を伝えるリーフレットにあった。「社会参加にはこんな意味があります」と説教するのではなく、子どもが社会に参加するということの意味を、書き込み方のゲーム絵本によって伝えている。
絵本はドイツ語で書かれていたし、ヤーナさんの英語を読解しきれなかったぼくの憶測でしかないことをお許しください。
シャイで自分の意見があまり言えないという設定の主人公を、読者に置き換えるために名前、性別、性格を書き込む欄がある。そしてこの絵本には子どもの友だちとしてドラゴンが登場する。これは、子どもの「不安」「ワクワクする気持ち」「言葉にならないアイデア」など、言語化されない感情を象徴している。その都度、読者は自分の感情を空欄に書き込み、このドラゴンとうまく対話しながら、友だちと付き合い、環をつくっていく過程が物語になっている。
誰もがもつ言語化できない感情を共有しながら他者とともに生きていく。「参画」という政治的な意味合いをもつ以前の、人間の社会のコンセプトをこの絵本によって、しかも書き込みによって参加させながら伝えていく。ここからすでに、子どもたちによってつくられる物語は始まっている。
ライプチヒの絵本工房でも思ったことだけど、ドイツにはファンタジーと政治をつなぐ文学性がそもそも土壌としてあるんだなという感じだ。なるほどミヒャエル・エンデの育った国だ。
「政治の仕組み」を「遊びの仕組み」に読み替える
そして2つ目の驚きは、ワークショップだ。ぼくが想像していた子どもが順番に手を上げてお行儀よくしなきゃいけない感じとはおよそ違った。
テーブルにはなんでも描きまくっていい模造紙が敷かれ、ペンやクレヨンなどあらゆる画材、粘土やブロックなどのあらゆる材料が用意されている。どうやら空間もパーティー感たっぷりで、ジュースやお菓子もたっぷりらしい。子どものテンションをあげるための
そして進行はワールドカフェみたいに5つの議題を5つのテーブルで。参加する子どもたちは順番に巡っていく。きっと、とりとめもないことをぎゃーすか言い合ったり、絵を描き殴ったり、粘土で人形劇したりするんだろう。
「議会」という大人の仕組みを、子どもの世界、つまり遊びの文法に読み替えて展開する。混沌とした遊びの世界から立ち上がるアイデアを待つ。
「それってこういうこと?」大人がさしだす言葉とかたち
ぼくの想像では、子どもがリーダーシップをとってまとめていけるよう、大人は引いて見守っているんだろうと思っていた。ところが、このワークショップには大人がガッツリ参加する。
ワークショップの最中、図書館なら司書さんが、公園なら建築家が、それぞれテーブルを注意深く観察している。そして何度目かのローテーションののち、子どもたちの意見/表現を読み解き、つなぎあわせたアイデアを「それってこういうこと?」とスケッチを描いて提案する。
子どもたちの、点在するバラバラな意見/表現を、プロフェッショナルである大人がつなぎ、言葉やかたちを与え、高次の統合を遂げる。それを見て、「そうそう!」「違う、そうじゃない!」「ここはこうであーで」など、よりディティールについて議論が深まっていく。デコレーションは得意だが、土台・枠組みをつくるのが苦手な子どもに、やわらかい枠組みをさしだし、やりとりをしながら「提案」として練り上げられていく。
街に出て遊ぶ
そして、三つ目の驚きは、街に出て行うリサーチ。子どもたちと一緒にもっていくスーツケースの中には、カメラ、マイク付きのMP3プレイヤー、地図、写真を出力するためのプリンター、スケッチブックやペンなどの画材などが入っている。そしてそれらの使い方を説明するハンドブックも。
公園の利用状況について調べるために、遊んでいる様子の撮影や利用者へのインタビューを行う。コミュニティの調査の場合は、地図にマッピングをし、トルコ系移民の人はネコ、高所得者の人はクマなど、スタンプでキャラクター化していく。ハンドブックにはそうした使い方が書かれているそうだ。リサーチ自体がある種のゲームでありごっこ遊びであるようだ!
アートプロジェクトとしての参画
リサーチの遊び性をつなぐように、フォーラムでの発表では、大人みたいなパワポのプレゼンではなく、劇をつくったり、歌をつくったり、時にはラップで表現することもあるようだ。そんなのほとんどの子どもは恥ずかしがってやりたがらない。一体どうなってんの?という感じだ。
遊びという言葉を使ってきたけど、これは実際的で政治性をもった演劇とも言える。「子どもの権利条約」あるいはそれに基づく法律が「戯曲」で、子どもは俳優。「子どもの参画専門員」はその演劇をかたちにする演出家であり、ドラマトゥルクなのかも知れない。そう考えると、「子ども青少年フォーラム」はアートプロジェクトであるとも言える。
実際の政治のために、「遊び」を媒介に行政が子どもを包摂する。行政主導のアートプロジェクトの、一つの正しいカタチなんじゃないか。
社会参加は大人から
シンポジウムの最後に卯月先生がまとめの言葉で、「練馬にはプレーパークや旭ヶ丘アートスタジオ、アーティスト・イン・児童館のような子どもの参画を面白くつくりだすプロジェクトがたくさんある。これらをまとめる大きな仕組みがあれば、練馬もミュンヘンのように、子どもたちが楽しく暮らせるまちにもっと変わっていくと思う」というようなことをおっしゃっていた。
実現するためには、市民の声をあつめて、議会を通して行政の計画にするという壮大さがある。多くの人が面白がるような「参画」のコンセプトを、日本語で練り上げる必要がある。そして学校や家庭、NPOを巻き込んだ、緻密なゲームの設計も。
とにかくミュンヘンの「子ども青少年フォーラム」の運営やその担い手が共有してるコンセプトやセンスが一体どうなってんの?と思うので、視察に行きたい!でも、視察したからといってこれを練馬で実施します!みたいなことをいう勇気はまだない。しかし、卯月先生の言葉から、参画はまず大人からなんだなと思った。ちょっとずつ、「なんかこういうこと議員さんに提案してみない?」というような気運が高まっていったらいいなぁと思う。
これ、面白い。近いうちに飯でも食いながら、詳しく聞かせて。
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