休みの日の夜にブログを書けるのは、のんびりしてていいなぁとか思いながら、今日は怖くてワクワクして最高だった舞城王太郎の新作『淵の王』のことを書く。Twitterにも書いたけど、『ビッチマグネット』以降のネオ青春感と、舞城ならではの文体に硬質さが加わって、さらにスリップストリームにチャラさが消えて怖さ!興奮!!!(以下、ネタバレある)
俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ――。
魔に立ち向かい、往還する愛と祈り!
友達の部屋に現れた黒い影。屋根裏に広がる闇の穴。正体不明の真っ暗坊主。そして私は、存在しない存在。“魔” に立ち向かうあなたを、ずっと見つめていることしかできない。最愛の人がこんなに近くにいたことに気づいたのは、すべてが無くなるほんの一瞬前だった……。集大成にして新たな幕開けを告げる舞城史上最強長篇!
話題になっているのはこの小説の語られ方で、「1.5人称」とか「3人称」とか言われるんだけど、要は、各章の主人公(中島さおり、堀江果歩、中村悟堂)の背後霊が、主人公に向かって語りかけるように進んでいく。いろいろ書きたいけど今日はこの仕掛けのところを書きたい。
「何となくだけど、俺はずっと君と同い年だと思ってた。俺は君のことしかしらないし、君とずっと小さい頃から育っていて、と言うよりふと気付くと気見といて、俺は君のいる世界から、君の見るもの聴くもの触るもの、そして君と話した人から全てを同時に学んできたのだ。」
(第二章「堀江果歩」の冒頭より)
↑こんな感じだ。登場人物の行動に同意したり、驚いたり、慌てたりするこの語り手が優しくて、かわいくて、そして勇敢で、たぶんきっと神様なのかもしれない。主人公の行動に決して手出しをしない(というかできない)この語り手(神様)が、最後の最後に決死の介入をしようとするシーンがもう最高に最高なのだ。この語り手の言葉のグルーヴ感が、もちろん舞城ならではのグルーヴィーな文体になっているんだけど、今回は抑圧の効いた、硬質で優しさに満ちた質感になっていて、それでいて次々と恐ろしいことが起こっていく。音楽的なライド感がすごい。
それで、この仕掛けが面白いなぁと思うのは、小説を読むってある種の「憑依」とか「幽体離脱」の体験で、他人のカラダに入り込んだような、あるいは幽霊になって世界を俯瞰しながら見るような、そういう経験なんだってことを、物語の中と、物語を読む人の経験の両方で味わえるようになっているということ。『九十九十九』でメタレベルで遊びまくった舞城は、ここでまた本気出してきた・・・・って感じになっている。
『淵の王』は、怖い想像が悪い影響を持つ、ということを、「怖い話」と「他者への呪い」が次第に影響していくことを描いている。
でもこういうことってぼくらの現実でもよくある感じだ。昔、ぼくが九州に向かって鈍行列車で一人旅をしていたとき、岡山の公園で野宿しようと思ったら霊媒師でホームレスのおじさんに出会って、一晩その人の話を聞いていたということがあった。
そのときに霊媒の話を色々聞いているうちに背中がぞくぞくしてきて怖いな〜怖いな〜って思っていたら、おじさんが突然指をパチンパチンと鳴らしはじめて、「こうすると気持ちが明るくなるし、空気も変わるでしょ?あいつら(霊とか)はこういう明るい気分が嫌いなんだよ。人が怖いと思ってる気持ちが好きで、そこに集まってくるからね」ということを言っていた。まさに、怖い想像が悪い影響を持つ、その感じだ。
「怖い気持ち」は怖いものを引き寄せるメディウムになる。高校生の頃にクラスのみんなでハマった『新耳袋 ー現代百物語』は、怪談が99話掲載されていて、最後の1話はあんたの身に訪れちゃうぞ、という、「怖い気持ち」を媒介にして、話を読む経験と日常の暮らしを地続きにしてしまうシリーズだった。今回、舞城は「背後霊の語り」っていう、語り手が読み手に憑依しつつちょっと浮いてる感じの小説の仕掛けによって、「怖い話」とそれを読んだときに起こる気持ちを、層を重ねるように現実への影響作用を強めている。
舞城作の怪談百物語をツイッター上で流すアカウント「深夜百太郎(@midnight100taro )」は、まさに百物語をツイッター上で実践するという文学的アクティビズムで、またしびれることをやってくれてる。
「感情や暴力はムードやトーンになって周囲に伝播する」っていうのは『スクールアタック・シンドローム』でも扱っていた主題だ。一方「意志が運命を変える」っていうのは、『ディスコ探偵水曜日』を貫いていた。ここでいう「意志」は、「そうしようと思ってすること」ではなく、「なんでだかわかんないけどそうしちゃうし、どうしていいかわかんないことをぐちゃぐちゃやってなんとかしようとしちゃう」みたいな、「衝動」に近い意味で使われている。衝動であると同時に信じる気持ちを持つ感じが「意志」、みたいな。
そもそも、ある感情が芽生える原因なんてハッキリしていなくて、唐突に、文脈なしに自分の心に巣食っちゃう「気持ち」が、行動を促したり周囲を変容させたりしてしまう、っていうのは舞城の世界観の独特さだよなと思っている。それが恋だったり呪いだったりするのかもしれない。そんな独特さの中で、責任とか約束とか信じる気持ちとか、そういうダサいけど切実な気持ちをもってダバダバと生きていく登場人物たちに、いつも陶然としてしまう。
いやぁ〜きっと『新耳袋』シリーズ読んでるんだろうな〜、とか、最後の「中村悟堂」はベケットの『ゴドーを待ちながら』とかけてんだろうな〜、とかアニメに挑んだ『龍の歯医者』や『バイオーグ・トリニティ』で漫画原作やってるのとかそういう経験が反映されてる感がすごくある「堀江果歩」の章のあのかんじとか、あのシーンの恐怖表現すげぇ!!!とか、いろいろ書きたいことあるけど次の機会にする。
とにかく激烈お勧め。
*関連する記事はこれ
「自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて」
「思っても見ない一筆や、自分の意表をつく展開」
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