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2015/07/09

物語の穴、乗り物、大げさな身振り―『きみはいい子』『マッドマックス』『ポンヌフの恋人』

先週、珍しく3本も映画を観たのだけど、どれも色味が違う映画であったし、どれも超絶よかった、、、!

観たのはテアトル新宿で『きみはいい子』、TOHOシネマ新宿で『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、Bunkamuraル・シネマで『ポンヌフの恋人』。(未見の方はネタバレあるかもなのでご注意ください)
まずは水曜日に観た『きみはいい子』。テアトルでやってて職場近いし、伊勢丹でコラボ企画やってることもあって、同僚に誘ってもらって観に行った。(予告編に重要なシーンぶちこみすぎなので、予告見ないで本編みてほしいかも・・・)

呉美保監督の新作で、ポプラ社から出てる小説『きみはいい子』が原作。一つの小学校とその街を舞台に、いじめや虐待や発達障害、自閉症など、重たく感じる題材だけど、ぼくたちも暮らしていて出会う事柄で、もしかしたら当事者になるかもしれない事柄を、普通にそこここにあるものとして扱う。

ハイライトはいくつもあるけど、ひとつは劇中に出てくるある「宿題」の感想を子どもたちが答えるシーン。唐突に出されたへんちくりんな「宿題」の感想を、やってきた子どもたちが口々に答える。普通ならこの手の泣かせ系って現実味がなくて白けちゃうんだけど、この映画は違った。

子どもたちが感想を答えた始めた瞬間にカメラが手持ちに切り替わるんだけど、あれ、、?これ、よくみたらこの映画に出てる子って、素人の子達なのかな、、、?おお、この子のきょどった感じとか、照れ隠しのやり方とか、小4男子そのもの、、あれ、、これ、もしかしてこのシーンだけドキュメンタリーなの、!!!?ってなる。子どもたちの反応や声のトーンが、奇妙なほどに落ちていて、元気さを押し付けられている子どもとは異なる小さく変な生き物で、愛されてる子どもたちの振る舞いだった。「現実味」とかじゃなくて、映画をつくる中で「事実」が生まれていて、それを記録している!!!ってなって泣くよね。

よく考えると、子どもに音読をさせるシーンで、一生懸命、やりすぎな抑揚をつけて読む子どもの姿とか、呉美保監督は子どもの演技性とそうでない照れや緊張にあるリアリティを分けて描いてる気がする。

物語としても、男女平等に名前に「さん」をつけて呼ぶところとか、ママ友コミュニティの歪さとか、観てるものの身体をゆるやかに狭窄させる感じと、「にゃんばっへ、、、、(がんばって)」とか、「絶対やってきます!!!」とか、名台詞連発で、池脇千鶴のとっさのあれとか、ハッとする場面の連打連打で、ラストの高良健吾が駆け出すシーンと第9が流れるところもドラマ的にふわあああああああお見事、、、って感じの重さと軽やかさの対比も素晴らしかった。泣かすよね〜って感じで。

とりわけよかったのは、物語に空いた「穴」になんだと思う。さっき書いた「宿題」によって、崩壊気味だった教室のムードは変わり、別の場所でもパラレルに起きる同じ行動が重さのある映画の雰囲気を少しずつ軽くし、晴らしていく。映画はハッピーエンドに向かって駆け出していく。だけど、物語は「穴」の空いたまま、輝きのかたわらにぽっかり空いた「穴」から闇がこっちを見ている感じがする。その闇が待つ扉の前で、キラキラした汗をかいた主人公が息を整え、ゴンゴンゴンとノックをする場面とその中断!!!穴の存在をはっきり示してる感。

日々の暮らしの中のムードに違和感や苦しさを感じているなら、この映画必見かもしれない、、、。


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はもちろんアドレナリンをどるるるるん!注入注入!って感じでずーーーっと映画的に走り続けてるんだけど、情動をゆさぶるメタファーの連打連打が楽しくて仕方なかった。名前、ハンドル、手、種、乳、スプレー、油、、、もうあげればキリがないや。邦題の「怒りのデス・ロード」っていう語感とか、劇中で「insane」って言ってんのに字幕がわざわざふりがな付きで「狂気(マッド)」って入れちゃってるところとか、日本の配給会社のひとや字幕手掛けた人も、この祭りに乗りに乗っちゃってちょっとバカになってる感じがたまらない。

しょっぱなからわけわかんないところに巻き込まれた主人公のフラッシュバックを使って観客が彼に憑依せざるを得なくする感じとか、物語の中と外の両方を鼓舞する太鼓と変態ギター男を積んだ音楽車が伴走してるとことか、観客を客席ごと巻き込むような構造があって、最高のライド感だった。映画ってやっぱ人を異次元に運ぶ乗り物だよな!乗り物感さいっこう!!!!

あとぼくがいいなぁ〜と思ったのはあの最後のほうのシーンでトム・ハーディーのマックスが「ぉっとっとっと、、、これを高く上げて、、、」とかってぶつぶついいながら輸血の準備するところだよな〜。あの朴訥とした色気と優しさすげーかっけー・・・と。なんか全体的に女性を強く大切なものとして描くところとか、それを支えるマックスやニュークスなど男子勢っていう物語の構造もよく考えたら超好みだし、それはラストシーンの優しさが映えるわけだわ。


『ポンヌフの恋人』



現在Bunkamura LE CINEMAで開催中の「ヌーヴェルヴァーグの恋人たち」。以前に『ホーリー・モーターズ』を観て以来ずっと劇場で観たかった『ポンヌフの恋人』をついに。初回だったこともあってか、ものすごく混んでいましたよ。

レオス・カラックス監督のいわずと知れた伝説の映画で、制作に時間がかかりすぎてポンヌフ橋での使用許可期間がおわっちゃって、しょうがないからっていって実寸台のセットをつくったらめっちゃお金かかった・・・という作品で、ラストシーンのショットは『タイタニック』のあのシーンのモチーフになってるんだとか。

予告編でも観られるようなこの橋の上での花火のシーンは圧巻だったし、ドニ・ラヴァン演じるアレックスは運命の操作人で、ミシェルに話しかけるきっかけをつくるために絵を挟んだ包みのヒモを解いておいたり、お金の入った缶を橋のヘリから落ちるように少し位置をずらしたり、そのあとに起こるハプニングを予想してそうなるように仕掛けていく。それでも、ハプニングを起こしたあとの感情のやりとりは想定できるものではなくて、嘆いたりスネたりしながら、ここに留まりたいと願うアレックスと、どこかへ行きたいと願うミシェルの衝突と抱擁は美しくてぽーっと見入ってしまった。

もうすぐ目が見えなくなってしまうミシェルが、アレックスに支えられながら駅の地下道を歩くシーン。「どんなことでも大げさにやって。私にわかるように…」といったあとに、おもむろにミシェルの前に躍り出て、回り、走り、壁を蹴り、宙返りをし、大きく動くアレックスのあの身のこなしがきれいだった。

子どもも嬉しいとピョンピョン飛ぶ。聞いたことがあるのは、人間の脳は大人になるとエネルギーの放出を60%ぐらいに抑制することができるようになる、というか無意識にしてしまうらしい。子どもはまだその調整ができなくて、なにか嬉しい事があったり興奮のスイッチが入ると100%に振りきって、脳ミソからの喜びの指令を身体のなかにとどめきれなくてぴょんぴょん飛んでしまうんだとか。

不安なミシェルに向けて、60%で抑圧することなくハラハラするほど振り切った様を見せるあの大げさな身振り、ああぼくも好きな人に対してこういうことできるかなぁとか。

ゴダールの『はなればなれに』とかトリュフォーの『大人は判ってくれない』とか、観たい映画たくさんあるこの特集。

いい映画を3つも見ることができて多幸感がありました。


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