年が明ける前日に29歳になり、2017年になって20代最後の1年が始まった。たまたまオフだった今日、ある方からのお話をきっかけに、自分が最もやりたいと思ってきたことってなんだろうとあらためて考えはじめた。やりたいことを語るなんて恥ずかしいし、なんだか間違っている気もするのだが、かっこつけてなきゃいけない立場でもないし、思い切って、自戒を込めて書いてみようと思う。新年だし。20代最後だし。
ぼくの仕事は、人、とくに子どもが参加し、何かを学ぶワークショップを企画することだ。学生時代からいろんなことをやってみたが、一貫してワークショップだったと言っていいと思う。なぜそれをやりたいのかといえば、ぼくは映画でも小説でも、人が困難とか偶然の出来事を前にして意志の力を信じてどうにかしようとする物語が好きで、それを見たいという欲求からだ。そしてそれは同時にぼく自身が自分の意志でどうにかする物語でなくてはならない。そこに責任がともなったとき、欲求が仕事になっている。
「ワークショップ」とは、大雑把に言えば参加体験型の学びの場=体験学習のようなもののことである。講演会や会議なども「ワークショップ」と言われることもあるし、まあ定義はさまざまでいいのだが、ぼく自身が好きなワークショップと嫌いなワークショップの基準は自分の中ではっきりしている。
結論から言えば、ぼくが好きなワークショップは、主催者にとっても参加者にとっても「冒険」になっているものなのだと思う。ワークショップをつくり実施することは、「冒険の入り口」をつくり、その扉をあけて未知のものと遭遇する他者と共に自らも未知への挑戦をすることだ。その「冒険」としてのワークショップの要素を7つ挙げてみた。
=====
① 未知との遭遇
ぼくが一番よくないと思うのは「主催者の期待通り」というもの。参加者が期待通りにパフォーマンスしていることに対して、主催者が感動しちゃってるなんてなおさらいやだ(そういう場面が必要な儀礼的なものもある)。ポイントは、主催者にとって新しいものを作り出す挑戦になっているか、ということだ。ワークショップにおいて、参加者を目的に向けて促していく進行役を「ファシリテーター」と言い、ぼくもその役割を仕事としているが、ファシリテーターは設定されたゴールに参加者を導く案内人であると同時に、未知のものを歓迎するのでなければない。常に自分が知らなかったことを発見し、驚き、こうなったらどうだろうという想像を巡らせ、即興で応答するなかで、気づいたら想定していたゴールの形が未知のものに変容している。そういうことを歓迎しなければならない。最初設定されていたゴールが参加者によって更新されたことを参加者に伝える役割でなくてはならない。
② 生活実践
ワークショップへの参加のきっかけは、参加者の生活実践に埋め込まれているべきだ。小学生の子ども向けのワークショップの場合、親が子どもをミュージアムに連れていく、という場合が多い。だがぼくは子ども自身が情報をキャッチし、親を説得してでも行きたいと思うものであるべきだと思う。そこに参加の意志と責任がある。それでこそ未知への冒険ができる。地元のお祭りでも、商店街の一角でも、公園でも、児童館でもいい。冒険の入り口は参加者の生活に寄り添って存在するべきなのだ。
③ 困難と選択肢
参加者をゴールまで導く案内人であるファシリテーターは、その道のりのなかで想定される困難を可能な限り洗い出し、参加者が乗り越えられるように階段をあらかじめ設計する。ときに、選択肢として複数のルートを設計する場合もある。しかし、それは困難の「省略」であってはならない。時に予想もしなかったことが参加者の困難になることもありうるが、それをどうやって乗り越えてもらうか、新しい選択肢を広げ、即興で提示していく。
④ 失敗・非参加への許容
ワークショップは知らないものと出会うし、困難と出会う。それはワクワクすることでもあるし、怖いことでもある。困難に挑んで失敗してしまうこともあれば、参加を見送りたい気持ちになることもあるだろう。当たり前のようだが、ワークショップには参加を強制しないことが必要だ。まれに、ゆるやかに、やわらかく、楽しげに、失敗する人や参加しない人を否定する雰囲気をつくっていることがある。のるかそるかはその人次第であり、ワークショップに出来ることは、出会いの可能性を提示し、参加のとびらをひらいておき、席をあけておくことまでだ。
⑤ 熟達者との関わり
ワークショップの最中に出会う困難とその乗り越え方には、熟達者のふるまいが参照される。音楽や演劇など身体を使ったワークショップの場合、自分だけで試行錯誤していては埒があかないことも、その道の熟達者の無言のふるまいのなかからヒントを見出し、自分なりの解釈で乗り越えていくことができる。また、ワークショップで熟達者との出会いを通して、人生のロールモデルを増やすことができる。「人は他者の物語の網目を生きる」という言葉がぼくは好きなのだが、人生はいままで出会ってきた他者の人生の引用の織物であり、自分自身の選択(どんなロールモデルを参照するか)の賜物だと思う。それを面白く、かっこよく、美しくするのは良き熟達者との出会いなのだと思う。
⑥ 身体の変化
ワークショップに参加した後は、その体験をするまえの身体には戻れないような、身体の変化が伴う。それがなく「刺激」「勉強」「気づき」という言葉だけが感想として出てくるようではダメだ。他者の身体を変えてしまうのだし、主催者自身の身体も変わらなければならない。そんなふうに協働し、変化しあう人の集まりであってほしい。
⑦ 観客・読者・聴衆へのパフォーマンス
生活実践のなかに埋め込まれた入り口をくぐり、困難を乗り越えながら未知のものと遭遇し、身体が変化していくワークショップというものは、閉鎖的なコミュニティではなく、開かれた社会的な実践であると思う。体験を参加者に消費させるのではなく、参加者とともに新しい物事が生み出されるものであってほしい。その物事は、閉じたコミュニティに埋没するのではなく世に開かれたものであるべきだ。そのために、観客・読者・聴衆、あるいは新しい参加者へと開かれたものができていくべきである。ワークショップとは教室という閉じた空間で収束するものではなく、大げさにいえば人に向けた作品・商品・サービスをつくる活動なのだと思う。
=====
と、こんな感じで書き出してみると、あらためてぼくがやりたいことは冒険の入り口を開き、冒険する他者のかたわらで、自らも冒険するということなのだろう。新しいことと出会い、価値観を解体するという痛みを伴いながら、新しいことを学ぶ過程に身を投じる、ということを繰り返したいのだと思う。冒険をめぐって、冒険したいのだと思う。
ここに書き出した7つの要素は、ぼくの理想だ。実践できているかどうか、自分の過去を戒めるような気分になる。とはいえ理想を持つことはその実現に向かうために必要で、そうでなければのんべんだらりでなんでもよくなってしまう。「どうすればこういう『冒険』をつくることができるのか」という方法論とか「なぜこの時代に『冒険』が必要なのか」とかの大きな文脈については、まだまとまらないし次の機会にゆずることにする。
今回はこの理想が明らかになったので、この一年、これに照らして自分の過去の仕事をふりかえってみようと思うし、この内容について、人とたくさん話をしたい気持ちなので、感想や意見を持たれた方は聞かせてほしいし、どんどん飲みに誘ってほしい。
ぼくの仕事は、人、とくに子どもが参加し、何かを学ぶワークショップを企画することだ。学生時代からいろんなことをやってみたが、一貫してワークショップだったと言っていいと思う。なぜそれをやりたいのかといえば、ぼくは映画でも小説でも、人が困難とか偶然の出来事を前にして意志の力を信じてどうにかしようとする物語が好きで、それを見たいという欲求からだ。そしてそれは同時にぼく自身が自分の意志でどうにかする物語でなくてはならない。そこに責任がともなったとき、欲求が仕事になっている。
「ワークショップ」とは、大雑把に言えば参加体験型の学びの場=体験学習のようなもののことである。講演会や会議なども「ワークショップ」と言われることもあるし、まあ定義はさまざまでいいのだが、ぼく自身が好きなワークショップと嫌いなワークショップの基準は自分の中ではっきりしている。
結論から言えば、ぼくが好きなワークショップは、主催者にとっても参加者にとっても「冒険」になっているものなのだと思う。ワークショップをつくり実施することは、「冒険の入り口」をつくり、その扉をあけて未知のものと遭遇する他者と共に自らも未知への挑戦をすることだ。その「冒険」としてのワークショップの要素を7つ挙げてみた。
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① 未知との遭遇
ぼくが一番よくないと思うのは「主催者の期待通り」というもの。参加者が期待通りにパフォーマンスしていることに対して、主催者が感動しちゃってるなんてなおさらいやだ(そういう場面が必要な儀礼的なものもある)。ポイントは、主催者にとって新しいものを作り出す挑戦になっているか、ということだ。ワークショップにおいて、参加者を目的に向けて促していく進行役を「ファシリテーター」と言い、ぼくもその役割を仕事としているが、ファシリテーターは設定されたゴールに参加者を導く案内人であると同時に、未知のものを歓迎するのでなければない。常に自分が知らなかったことを発見し、驚き、こうなったらどうだろうという想像を巡らせ、即興で応答するなかで、気づいたら想定していたゴールの形が未知のものに変容している。そういうことを歓迎しなければならない。最初設定されていたゴールが参加者によって更新されたことを参加者に伝える役割でなくてはならない。
② 生活実践
ワークショップへの参加のきっかけは、参加者の生活実践に埋め込まれているべきだ。小学生の子ども向けのワークショップの場合、親が子どもをミュージアムに連れていく、という場合が多い。だがぼくは子ども自身が情報をキャッチし、親を説得してでも行きたいと思うものであるべきだと思う。そこに参加の意志と責任がある。それでこそ未知への冒険ができる。地元のお祭りでも、商店街の一角でも、公園でも、児童館でもいい。冒険の入り口は参加者の生活に寄り添って存在するべきなのだ。
③ 困難と選択肢
参加者をゴールまで導く案内人であるファシリテーターは、その道のりのなかで想定される困難を可能な限り洗い出し、参加者が乗り越えられるように階段をあらかじめ設計する。ときに、選択肢として複数のルートを設計する場合もある。しかし、それは困難の「省略」であってはならない。時に予想もしなかったことが参加者の困難になることもありうるが、それをどうやって乗り越えてもらうか、新しい選択肢を広げ、即興で提示していく。
④ 失敗・非参加への許容
ワークショップは知らないものと出会うし、困難と出会う。それはワクワクすることでもあるし、怖いことでもある。困難に挑んで失敗してしまうこともあれば、参加を見送りたい気持ちになることもあるだろう。当たり前のようだが、ワークショップには参加を強制しないことが必要だ。まれに、ゆるやかに、やわらかく、楽しげに、失敗する人や参加しない人を否定する雰囲気をつくっていることがある。のるかそるかはその人次第であり、ワークショップに出来ることは、出会いの可能性を提示し、参加のとびらをひらいておき、席をあけておくことまでだ。
⑤ 熟達者との関わり
ワークショップの最中に出会う困難とその乗り越え方には、熟達者のふるまいが参照される。音楽や演劇など身体を使ったワークショップの場合、自分だけで試行錯誤していては埒があかないことも、その道の熟達者の無言のふるまいのなかからヒントを見出し、自分なりの解釈で乗り越えていくことができる。また、ワークショップで熟達者との出会いを通して、人生のロールモデルを増やすことができる。「人は他者の物語の網目を生きる」という言葉がぼくは好きなのだが、人生はいままで出会ってきた他者の人生の引用の織物であり、自分自身の選択(どんなロールモデルを参照するか)の賜物だと思う。それを面白く、かっこよく、美しくするのは良き熟達者との出会いなのだと思う。
⑥ 身体の変化
ワークショップに参加した後は、その体験をするまえの身体には戻れないような、身体の変化が伴う。それがなく「刺激」「勉強」「気づき」という言葉だけが感想として出てくるようではダメだ。他者の身体を変えてしまうのだし、主催者自身の身体も変わらなければならない。そんなふうに協働し、変化しあう人の集まりであってほしい。
⑦ 観客・読者・聴衆へのパフォーマンス
生活実践のなかに埋め込まれた入り口をくぐり、困難を乗り越えながら未知のものと遭遇し、身体が変化していくワークショップというものは、閉鎖的なコミュニティではなく、開かれた社会的な実践であると思う。体験を参加者に消費させるのではなく、参加者とともに新しい物事が生み出されるものであってほしい。その物事は、閉じたコミュニティに埋没するのではなく世に開かれたものであるべきだ。そのために、観客・読者・聴衆、あるいは新しい参加者へと開かれたものができていくべきである。ワークショップとは教室という閉じた空間で収束するものではなく、大げさにいえば人に向けた作品・商品・サービスをつくる活動なのだと思う。
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と、こんな感じで書き出してみると、あらためてぼくがやりたいことは冒険の入り口を開き、冒険する他者のかたわらで、自らも冒険するということなのだろう。新しいことと出会い、価値観を解体するという痛みを伴いながら、新しいことを学ぶ過程に身を投じる、ということを繰り返したいのだと思う。冒険をめぐって、冒険したいのだと思う。
ここに書き出した7つの要素は、ぼくの理想だ。実践できているかどうか、自分の過去を戒めるような気分になる。とはいえ理想を持つことはその実現に向かうために必要で、そうでなければのんべんだらりでなんでもよくなってしまう。「どうすればこういう『冒険』をつくることができるのか」という方法論とか「なぜこの時代に『冒険』が必要なのか」とかの大きな文脈については、まだまとまらないし次の機会にゆずることにする。
今回はこの理想が明らかになったので、この一年、これに照らして自分の過去の仕事をふりかえってみようと思うし、この内容について、人とたくさん話をしたい気持ちなので、感想や意見を持たれた方は聞かせてほしいし、どんどん飲みに誘ってほしい。
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