2016年のキネマ旬報ベスト1に選ばれるなどの超・超・話題作である『この世界の片隅に』をやっと観に行った。そして、すごくすごく最高だったので、ぼくは漫画も未読だし、映画も一回しか観ていないが、ちょっと感想を書きなぐってみる。
注:ネタバレを多分に含みます。
この映画、「たまたま戦争という時代を生きた人たちの日常」という視座の置き方への賞賛をテレビの特集などでよく見る。しかし、それだけではない。物語にちりばめられた点の素晴らしさがあった。
まず第一に、アニメーションとして、アニメーションにしかできない物語方法で、ファンタジーを忍ばせていたこと。冒頭の、毛むくじゃらの男によって、カゴの中に入れられて運ばれるシーンがあり、それが実は将来の旦那さんとの出会いのシーンでもある。のちに結婚する相手との出会いを、淡い、昼間見た夢のような表現で、まるでそっと忍ばせるような品の良さで、観客の心にも、ほんのりとした酔いを残すだけで、また素朴な日常へと戻していく。
この日常とファンタジーのフェードイン・フェードアウトは、アニメーションにしかできない!そして、日常の中に入ってくる戦争、戦争の中の日常、という物語主題ともマッチしている。ほかにも、座敷童子の女の子が、じつはりんさんだったんじゃないか、みたいなこととか、そういうほんのりさが、とても難しい抑圧の効いたバランスで成り立っていて、美しかった。
次に、主人公すず役ののんさんの声。冒頭の子ども時代の語りから「うちはぼぉっとしとるけぇ」というやわらかいトーンが、映像のふんわりしたトーン、そしてこれからのことを予言するようなコトリンゴの「悲しくてやりきれない」とが見事に合わさっていて、鳥肌が立つ。
その淡々としたやわらかさのなかに少しずつ少しずつ爆撃が映し出されることが増えていく。それに呼応するかのように、のんさんの声が憤り、慟哭する場面が幾つか出てくる。このやわらかさのなかの激情が、映画全体の物語と合わさって、観客の心を震わせたと思う。
そして、なによりぼくがそれまで我慢していたのに落とさなかった涙を決壊させたのはエンドロールだった。物語の重要な核とも言える内容を、あわよくばもう1作かけて描くような内容を、最後のあのエンドロールのなかに持ってくるなんて!!!
原爆で右手を負傷し子どもを守りながら母親が死んでいくのを隣で見ていた子どもが、別の理由で右手を失ったすずのところにやってきて、擦り寄っていく。その子と一緒に家に帰る、というところで本編が終わる(かのように見える)。
その前に、すずさんが子どもを授かったことが描かれるが、劇中でその子が生まれることがなかった。ぼくはぼーっとしていて気づかなかったが、生まれなかったのだ。子どもが。その代わり、最後に出会う子どもを、すずさんも我が子のように思っていこうとしたのか、それで家に連れて帰ることにしたのか…。エンドロールでは、その子と共に暮らすことになり、成長し、失った姪子の服を着せたりして成長していく様が描かれていく。
そもそも他者であったはずの人の家に嫁ぎ、家族として暮らすことの艶やかさと違和感が物語の端々で描かれていったが、夫も、子どもも、血の繋がっていない人たちと生きることを選んだすずさんのその後の人生の物語は、丈夫でたおやかな布地のように美しくて、エンドロールという短い時間のなかに圧縮されていたため、その情報が体の中を駆け巡る速度が強かった。で、涙決壊。
自分も半年ほど前に結婚をして、妻と一緒に暮らしはじめたばかりだったので、こうして血の繋がっていない他者と糸を撚り合うように生きていくことの物語に悲しみと希望をもらった気がするし、一方でぼくたちの世界にも少しずつ戦争が臭ってきている時代にあって、この世界の片隅でぼくらがどう生きていくか、何を選び、何を捨てるのか、誰と生きるか、ということを静かに自分たちに問いたくなった。
そんなこの映画を小学生の子どもをつれて家族で観に来ているひとも多くて、ぼくらが最後に劇場をあとにするときに座席にバッグが忘れられていて、「これ、誰か忘れてませんか?」と声をかけると「あ、」と言って駆け寄ってくる子にそのバッグを手渡したんだけど、そんなことにも意味を見いだしたくなる感覚に、体が変わっていた。(こういう感覚のことを、どう言葉にしたらいいんだろう。クオリア?)
ぼくが仕事でやっているワークショップの設計は、人の経験をデザインしている(この言い方はちょっとおこがましくて使うのに少し迷っている)のだけど、そのことと比べてみると『この世界の片隅に』は、素晴らしい経験だった。それについては次に譲る。
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