野上絹代さん作・演出いわき総合高校芸術表現系列の学生出演の舞台作品『1999』を観に、福島県いわき市に行ってきた。片道3時間半のちょっとした旅だが、今回は自宅から劇場までを直線でつなぐような旅で、寄り道をせず、ストイックに観劇に行った感じだ。その道中、一緒に行った妻と友人と他愛もない話をしながらのんびりすごした。
野上作品はこれまでも、作・演出をした俳優板橋駿谷さんの一人芝居『俺の歴史』、野田秀樹作品の演出をした『カノン』、ソロプロジェクト三月企画の『GIFTED』『ニンプトカベ』を観てきている。(結構見てるな)『GIFTED』と『カノン』はブログに感想を書いた。これまでの作品には、卑近な日常と宇宙の大河がつながってしまう縦横無尽なスケールや、役者自身の実際のエピソードが演劇として仕立てられていくこと、観客が自分を舞台上の役者たちに重ねていく仕掛けの散りばめなどなど、野上作品の特徴が積み重ねられている。今回はそういうことをいわきの女子高校生たちと一緒に作るというのだから、これは必見と思い、足を運んだ。
==以下、若干ネタバレを含む==
この公演はいわき総合高校の授業の一環として行われている。芸術表現系列(演劇)というコースを専攻している学生と、招聘されたプロの演出家が一緒に作品を制作することでコミュニケーションする力を育むことを目指しているという前提で行われたものだ。けどまぁ演劇なのか教育なのか、そんな区別はどうだっていいぐらい面白かった。
今回の10人の出演者のほとんどは1999年に生まれた女子高校生だ。1999年はノストラダムスの大予言で、七の月に恐怖の大王が舞い降りるとかどうとかという予言で世間がざわついていた時期だということで、演者たちは「わたしたちは、恐怖の大王だ!」といって顔をがっつり塗ったKISS的なデスメイクで登場する。「おまえたちに恐怖をあたえてやる!」的なことを言うものの、多くは「出落ちという恐怖」とか「このメンツで80分やるとおもったら怖い」とか、そういう卑近な恐怖のことを言ってて笑える。
10人の自己紹介があり、その後、どうやって「恐怖の大王」を演じるか、ということを話しはじめ「悪い事をしよう!」と言って、これまでにしたほどほどに悪いことをポップに歌ったあと、ポイ捨てとかオレオレ詐欺とかを提案していくが、ことごとくなんか微妙な感じで終わる。このとき「はーい!オレオレ詐欺やりたい!」「いいねぇ!」って言った次の瞬間には「もしもし~」といってオレオレ詐欺のコントが始まる。このショートコントの連打が笑いをつくっていく。
ノストラダムスの大予言は嘘だった、ということもあるのか、その後は大嘘をついてみよう、という話になっていくが、これもありえないっしょみたいな話になったとき、そのうちの2人が嘘にしたい本当の経験の話をしはじめる。これもさっきのショートコントの入りと同じように話が始まるのだが、これまた微妙な空気になり、ムカツクぜ!!!となる。みんなそれぞれが自分への苛立ちをぶつけたラップがここから始まるのだが短い時間で10人それぞれバリエーションのあるフローで最高だった。このむかつきがピークに達したあと、ぐだぐだしてみんなバイトにいってしまう。
バイトに行くと今度はバイト先で、みんなそれぞれが「終わり」とか「死」について考え始める。演劇部の練習にみんなが参加して、基礎体力の稽古をしながら、こんな終わり方は嫌だ、という思いを吐露し始める。そして・・・
という感じでここから怒涛のクライマックスへ向かうのだが、このクライマックスの最高さは2月にも東京公演があるとのことなので伏せておく!
内容をざっとふりかえってみるとこんな感じだったと思う。(間違っていたらごめんなさい・・・)
「悪いことをしよう」も「嘘をつこう」も微妙な空気になっちゃう、その過程の、高校生特有の否定と肯定を同時に含んだ言い回しで、ノリと勢いだけでどうにもならない感じのむずがゆさが、切なさにも面白にも、悲しみにも愛おしさにもなって観客としてみているぼくも心がぐるぐるする。
そして、「これでもか!」「これでもか~~~!!!!」と畳み掛けてくるクライマックスのビッグバンに巻き込まれながら、もっともっと見ていたい、終わらないで~!!!という想いで目と心を熱くしながら観たわけだけど、もう一回観たいという気持ちが高まりすぎて、昼の公演の後、当日券で夜の公演も観ることにした。
そんな感じで興奮しながら、帰りの電車で、妻と友人と、作品としての最高さを話しながら「10人のなかで誰推し?」とか「自分の子どもだったら誰が一番近いと思う?」とか、結構キショい話をして、最終的には「今回の制作と公演の体験って、教育として何をもたらすんだろうね」というような話になった。
『1999』のことをふりかえりながら、ぼくは『夢の教室』というドキュメンタリー映画を思い出した。これはピナ・バウシュの代表作品『コンタクト・ホーフ』という演目を、ダンス経験のない十代の少年少女が10ヶ月の特訓を積み、舞台の上で踊るまでの過程を記録した映画だ。
『コンタクト・ホーフ』は、一人一人の身体の検閲のような場面から始まり、触れ合える近さにいながら触れられないこと、遠くにいながらまるで触れ合うように戯れることを踊りながら、踊り手が自らの身体の醜さも可愛らしさも受け入れていく過程を見るような作品だ。自らの身体の醜さも可愛らしさも受け入れていくことは、10代の少年少女には最も酷なことだろう。背伸びをし、世間が思い描くような美しさや格好良さに近づこうと自分の身体を加工していこうとする過程にあって、その憧れから遠い自分自身のありのままを直視しなければならないからだ。そしてそれを直視し、振付家とともに受け入れた彼・彼女らの姿が美しすぎて涙が出る。
アフタートークで、演出の絹代さんが「人の短所の方が絵になる」というようなことを言っていて、生徒たちが短所を発表するところから『1999』の制作は始まったらしい。なるべくなら直視したくない自分の身体的・性格的なコンプレックスをみんなのまえで言って、果てはデスメイクをして舞台に立ちそのことを大声で言うだなんて、過酷だ…。でもそれを面白さとして、ありのままで何が悪いんだ的な感じで、吹っ切った状態で演者たちは演じきっていた感じがある。
ほぼ妄想で、稽古のプロセスを考えてみる。
10人の演者は、演出家に向かって自分の短所を語り、自分が思う私(=私A)を見せる。演出家は、それを語る彼女たちが生きているだけで面白いしキラキラしてて最高って思っている。その短所もまた魅力だ!と思って、演出家の世界観/言語で彼女たちの像(=私A’)ができあがっていく。「恐怖の大王」というメタファーを着せつつ、彼女たち自身のコンプレックスを聞き取ったままに、台本・演出・振付を手渡していく。私Aが、演出家への信頼のもとに、私A’を受け入れて、それを舞台上で見せていく。そうすることで、それまでと大きくは変わっていないが確かに新しい私になっていくんじゃないか。
ぼくも高校生のころ、座高が高い(=足が短い)のを気にして腰を曲げた座り方をしていて腰痛になったり、ガリガリの身体を筋肉質に見せたいがために腹筋と大胸筋ばかりを鍛えて背筋が弱くなったりしてたなぁ、とか。あのころに自分の身体と心を受け入れろ、とコーチしてもらえていたらその後の人生違ったと思う。
例えば、占いとか、あとはデザインとか、カウンセリングとか、「クライアント」がいて、その人の言葉を聞きながら進めていく仕事ってたくさんある。多くの場合、クライアントは問題解決を求めてくる。それに対して「こうすべきだ」と解決案を提示するような答え方もある。でもそれって「こうしなさい」という強制になりかねないんじゃないか、とも思う。この手の仕事の大前提って、クライアントが問題だと思っていることが何かとか、どうしたいという願望が何かとか、そういうことをひっくるめて、存在それ自体を肯定するような仕事なんじゃないかと思う。その上で問題が解決することがあればそれでもいいし、そもそも問題じゃなかったってこともありえたりする。
教育の目的の1つには、「人が自由に生きられるようになる」ということがあると思っている。特に芸術教育の場合。「自由」の対義を仮に「強制」だとする。でも、完全なる自由はなくて、必ず制約や要求があって、その制約や要求にただただ従っていると「強制」されていることになるが、制約や要求のことをよく知り、受け入れることは「自由」に近づいていくことなのだと思う。そして、自分にかかる制約として最も卑近なものは、自分の身体と心だ。そのありのままを受容することには、「強さ」が必要だ。その強さは個人から発生してくることは滅多にないだろう。自由になるための強さって、最初は誰かが包み込むような優しさで「そのままで大丈夫」と安心させたり、力強く励ましたりすることで、他者から与えられるものなんじゃないだろうか。
シンプルな「いま・ここ」における、力強い存在の肯定。音楽も最高だったし、きめ細やかな演出のあれこれとか、10人それぞれの輝きについてとか、しゃべりたいことはまだたくさんある。あー一個言いたいのは、高校の校長先生が始まる前に挨拶するときにさりげなくしていたデスメイクの素敵さと、そのときのBGMがキリンジの『悪玉』でそれが作品の内容をなぞるようで、めちゃめちゃよかった。
2月の東京公演を、楽しみにしている。
2月の東京公演を、楽しみにしている。
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