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2017/09/12

消費と浪費と格闘技 ー異種格闘技イベント「巌流島」に行った

92日は異種格闘技イベント「巌流島」をたっぷり楽しんだので、ちょっとそれについて思考してみる。

まず、最初にちょっとわけのわからないことを書くが、この格闘技観戦で興奮したことはぼくにとって尽きる事のない消費の一環なのか、それとも人生を豊かにする贅沢の一つなのか、ということについて。2011年に出版された『暇と退屈の倫理学』(國分功一郎著/朝日出版社)を読んで以来、この消費なのかそうでないのかについては、ずっと考えている。

この本『暇と退屈の倫理学』では「暇と浪費はよいが、退屈と消費はダメだ!」という。「暇」とは客観的な時間のことであり、「退屈」とは主観的な状態である。「浪費」とはものを楽しむことであり、満足があるが、「消費」とは記号と観念を求めることであり、満足がない。

私たちはどうしても退屈への不安にとらわれてしまう。だからそこから逃げるために気晴らしを探す。気晴らしは楽しみでなくて興奮であればよい。そのために消費社会はあらゆるサービスを用意している。いろんなレイヤーで世界が分かれているので、洋服も欲しい、音楽も聴きたい、ゲームもやりたい、となる。衝撃的な事件のニュースを追いかけることも、あるいは退屈しのぎの気晴らしなのかもしれない。気晴らしは本当に気を晴らす事にはならず、記号や観念を消費していくだけなので、どれだけ消費しても満足することはできない。

では、退屈してしまう人間の生と向き合うためにはどうすればいいか。この本の結論としては〈人間であること〉を楽しみ、〈動物になること〉を待ち構えよ、というものだった。どういうことか。人間は何かを楽しみながら、「楽しむとはどういうことか」を考えることができる。それは思考する事を楽しむことである。一方で「楽しむ」とは、なにかに〈とりさらわれる〉ことである。まるで動物になるように、ある世界に没入すること。その両方を往復することで、むやみやたらと消費を追い求めるのではなく、日常的実践のなかにある様々なものごとに「楽しみ」を見出すことができるようになる。退屈の問題は「自分」の問題であるが、この問題に「楽しむ」ことをもって向き合えた時、関心は他者へと移っていくだろう、と希望を示して文が結ばれる。

というわけで、ぼくは2日は〈動物〉になってガンガン夢中になってきたわけだが、ちょっとその楽しかったことについて思考してみる。

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92日 異種格闘技イベント「巌流島」

子どもの頃からプロレスやらジャッキーチェンやらが好きで、ボクシングの飯田覚士選手の世界戦も見に行ったことがあって、格闘技的なものが大好きだった。これまで生きてきて何度もボクシングジムに通おうか迷ったことがあるが結局行っていない。中学~高校の頃はPRIDEK-1も超盛り上がっていたこともあって、大晦日は紅白歌合戦そっちのけで格闘技に夢中になっていた。まぁ、よくいる男子だ。

そんで大人になってみるとPRIDEもなくなりK-1も地上波で見なくなって、あー総合格闘技はUFCしかなくなっちゃったか~テレビで見れないしな~などと思っていると、妻から「巌流島っていう格闘技のイベントがあるみたいだよ」と聞く。え?巌流島知らないなぁ、と思ってYoutubeで調べてみると、「柵なしの円形の土俵で、3回転落させたら勝ち」「関節技は無し。寝技(パウンド)は15秒まで」などなどルールが面白い。さらには菊野克紀選手や小見川道大選手など、かつてHERO’Sで活躍してた選手がメインを張る。菊野選手の三日月蹴り大好きだったので、ライブで見られるのかよ!と興奮した。よし、なんだかわかんないけど、格闘技好きだし、応援行こうぜ!となって、56日に見に行ってみた。当日券を買ったら運が良かったのかSRS席の前から3列目が空いていて、目の前でファイターたちを見られることになって、ウヒョ~!!という感じだった。

そのなかでもちょっとした知り合いのつながりもあった選手を応援に行った。それが193cm100kg越えという大器、シビサイ頌真選手。ボビー・オロゴンからの刺客でアフリカの伝統格闘技のファイターとの対戦だったのだけど、実力差がありまくりだったのか、1ラウンドであっという間に転落3回で決まってしまった。おおお、なんだかすごい強そうじゃん。もっと強い相手との試合がみたいぞ!と興奮。

他にも、精神保健福祉士という職種を生業とする実戦空手の原翔大選手は「ひきこもりの陰キャラファイター」という帯付きで、めっちゃ応援したくなる。ご自身で経営されている法人「ささえる手」の名前が出てきて、わ!格闘技界の福祉の星だ!と思った。そしてバックハンドブローやハイキック、集中しまくったあ試合運びなど、陰キャラというふれこみとは真逆の華のあるファイトで、夫婦でファンになった。

で、92日には2回目。さすがにA席だったので後ろのほうだったのだけど、巌流島は金網もリングロープもないのでめっちゃくちゃ見やすい。シビサイ選手も原選手も前回の大会でファンがついたようで、若手の最注目株となっていた。


どの試合も、めちゃんこ面白かったから、13日の大会は友達も誘っていこうと思う。

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格闘技とボディイメージ

で、前置きが長くなったんだけどここからがこの格闘技を見てて色々考えたこと。現場で試合を観戦する醍醐味はなんといってもその臨場感である。目の前でファイターたちが試合に臨む。その場にぼくらも臨む。「シュッシュ、バン!ススス・・・バン!バン!」(選手のフットワークやの音)、「スパーーーーン!」(弾けるローキックの音)、「ズドン!」(投げ技で身体が落ちる音)、「ゴッ、ゴッ、ゴッ」(叩き込まれるパウンドの音)など、音がスゲェ。あんなんと対峙したら、まして技食らったらシヌゥ~!みたいな感じで、見ている側はヒヤヒヤしながら、勝敗が決まる瞬間にはドッと盛り上がる。

で、推しの選手がいたりするとこれまた大変だ。選手の身体に憑依するように、殴られたら痛いように感じるし、技が決まったら嬉しくなる。推しの選手の身体感覚を自分の中でイメージしながら見る。

脳の中には身体のイメージ図(=ボディ・イメージ)があって、そのボディ・イメージは他者に感情移入すると相手の身体をトレースする。もちろん選手とぼくでは全く身体の仕様が違うのでトレースの精度は超低いはずなのだが、目の前で繰り広げられる闘いの熱量と響く技の音の臨場感が自分を興奮に誘い、選手の身体のように強くなったと錯覚する。その錯覚のなかでぼくたちは試合を見るので、なんだか強くなったような気分になる。この「強くなったような気分」にはちょっと注意が必要だなと思った。

当然だが実際に試合しない自分のボディ・イメージは感覚をともなわない。しかし、選手たちは、ヒットした顔やボディ、ガードした腕や殴った拳の痛み、加速した心拍や過熱した体温を感じる。痛みや過熱は苦しみであって、それを味わうことは恐怖でもある。菊野選手が試合後に「格闘家は相手と対峙する恐怖を、勇気で克服する。その勇気を見せることで、元気をもらってくれたら嬉しい」と素敵なコメントをされていた。ぼくたち観客は、この恐怖には直接は対峙せず、脳内のイメージだけで、技が決まる快感を錯覚する。錯覚しているということを自覚し、現実との溝を埋められるよう努めながら試合を見るか、無自覚に錯覚に没入するかってだいぶ違うな~と思った。

じゃあどうすれば錯覚と現実の溝を埋められるか。そんなときに今はやりのVRは効果があるんじゃないかなぁと思った。例えば、ヘッドマウントディスプレイで、対戦相手との距離感やパンチやキックの速度を一人称視点で観ることができたらば、選手の恐怖心への共感が変わる気がする。試合前にロビーでこれを体験できるサービスあったら、観客の体験の質はぐぐっと上がるだろうし、選手へのリスペクトが増すだろうと思う。VRじゃなくてリアルで、試合後とかに選手とリング上で対峙できる体験とかあったら、ぜひやってみたい。菊野選手のいう恐怖とそれを克服する勇気を想像する力を、それらの体験は向上させると思う。格闘技をテーマにワークショップをつくる機会があったら、そういうのをやってみたい。


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「巌流島」を観に行くことは、消費なのか浪費なのか

ぼくは前から予定を入れておいて仕事を空けて巌流島を観に行き、楽しんで、その楽しみ方についてさらに考えたので、これは消費ではなく贅沢をしたと言える。ただ、あの試合の面白さは中毒性があり、もっと見たくなる(満足できなくなる)感じがあるのも確か。まぁそれがエンターテイメントというものなので、それはいい。


格闘技の観戦を通して、ぼくとしては仕事に関係することを学べる事も少なくないし、今後もフォローしていきたいと思いましたという話。

2017/08/20

私Aと私A’、自由、存在の肯定 ーいわき総合高校卒業公演『1999』を観た

野上絹代さん作・演出いわき総合高校芸術表現系列の学生出演の舞台作品『1999』を観に、福島県いわき市に行ってきた。片道3時間半のちょっとした旅だが、今回は自宅から劇場までを直線でつなぐような旅で、寄り道をせず、ストイックに観劇に行った感じだ。その道中、一緒に行った妻と友人と他愛もない話をしながらのんびりすごした。



野上作品はこれまでも、作・演出をした俳優板橋駿谷さんの一人芝居『俺の歴史』、野田秀樹作品の演出をした『カノン』、ソロプロジェクト三月企画の『GIFTED』『ニンプトカベ』を観てきている。(結構見てるな)『GIFTED』と『カノン』はブログに感想を書いた。これまでの作品には、卑近な日常と宇宙の大河がつながってしまう縦横無尽なスケールや、役者自身の実際のエピソードが演劇として仕立てられていくこと、観客が自分を舞台上の役者たちに重ねていく仕掛けの散りばめなどなど、野上作品の特徴が積み重ねられている。今回はそういうことをいわきの女子高校生たちと一緒に作るというのだから、これは必見と思い、足を運んだ。

==以下、若干ネタバレを含む==

この公演はいわき総合高校の授業の一環として行われている。芸術表現系列(演劇)というコースを専攻している学生と、招聘されたプロの演出家が一緒に作品を制作することでコミュニケーションする力を育むことを目指しているという前提で行われたものだ。けどまぁ演劇なのか教育なのか、そんな区別はどうだっていいぐらい面白かった。



今回の10人の出演者のほとんどは1999年に生まれた女子高校生だ。1999年はノストラダムスの大予言で、七の月に恐怖の大王が舞い降りるとかどうとかという予言で世間がざわついていた時期だということで、演者たちは「わたしたちは、恐怖の大王だ!」といって顔をがっつり塗ったKISS的なデスメイクで登場する。「おまえたちに恐怖をあたえてやる!」的なことを言うものの、多くは「出落ちという恐怖」とか「このメンツで80分やるとおもったら怖い」とか、そういう卑近な恐怖のことを言ってて笑える。

10人の自己紹介があり、その後、どうやって「恐怖の大王」を演じるか、ということを話しはじめ「悪い事をしよう!」と言って、これまでにしたほどほどに悪いことをポップに歌ったあと、ポイ捨てとかオレオレ詐欺とかを提案していくが、ことごとくなんか微妙な感じで終わる。このとき「はーい!オレオレ詐欺やりたい!」「いいねぇ!」って言った次の瞬間には「もしもし~」といってオレオレ詐欺のコントが始まる。このショートコントの連打が笑いをつくっていく。

ノストラダムスの大予言は嘘だった、ということもあるのか、その後は大嘘をついてみよう、という話になっていくが、これもありえないっしょみたいな話になったとき、そのうちの2人が嘘にしたい本当の経験の話をしはじめる。これもさっきのショートコントの入りと同じように話が始まるのだが、これまた微妙な空気になり、ムカツクぜ!!!となる。みんなそれぞれが自分への苛立ちをぶつけたラップがここから始まるのだが短い時間で10人それぞれバリエーションのあるフローで最高だった。このむかつきがピークに達したあと、ぐだぐだしてみんなバイトにいってしまう。

バイトに行くと今度はバイト先で、みんなそれぞれが「終わり」とか「死」について考え始める。演劇部の練習にみんなが参加して、基礎体力の稽古をしながら、こんな終わり方は嫌だ、という思いを吐露し始める。そして・・・

という感じでここから怒涛のクライマックスへ向かうのだが、このクライマックスの最高さは2月にも東京公演があるとのことなので伏せておく!

内容をざっとふりかえってみるとこんな感じだったと思う。(間違っていたらごめんなさい・・・)

「悪いことをしよう」も「嘘をつこう」も微妙な空気になっちゃう、その過程の、高校生特有の否定と肯定を同時に含んだ言い回しで、ノリと勢いだけでどうにもならない感じのむずがゆさが、切なさにも面白にも、悲しみにも愛おしさにもなって観客としてみているぼくも心がぐるぐるする。

そして、「これでもか!」「これでもか~~~!!!!」と畳み掛けてくるクライマックスのビッグバンに巻き込まれながら、もっともっと見ていたい、終わらないで~!!!という想いで目と心を熱くしながら観たわけだけど、もう一回観たいという気持ちが高まりすぎて、昼の公演の後、当日券で夜の公演も観ることにした。

そんな感じで興奮しながら、帰りの電車で、妻と友人と、作品としての最高さを話しながら「10人のなかで誰推し?」とか「自分の子どもだったら誰が一番近いと思う?」とか、結構キショい話をして、最終的には「今回の制作と公演の体験って、教育として何をもたらすんだろうね」というような話になった。

1999』のことをふりかえりながら、ぼくは『夢の教室』というドキュメンタリー映画を思い出した。これはピナ・バウシュの代表作品『コンタクト・ホーフ』という演目を、ダンス経験のない十代の少年少女が10ヶ月の特訓を積み、舞台の上で踊るまでの過程を記録した映画だ。


『コンタクト・ホーフ』は、一人一人の身体の検閲のような場面から始まり、触れ合える近さにいながら触れられないこと、遠くにいながらまるで触れ合うように戯れることを踊りながら、踊り手が自らの身体の醜さも可愛らしさも受け入れていく過程を見るような作品だ。自らの身体の醜さも可愛らしさも受け入れていくことは、10代の少年少女には最も酷なことだろう。背伸びをし、世間が思い描くような美しさや格好良さに近づこうと自分の身体を加工していこうとする過程にあって、その憧れから遠い自分自身のありのままを直視しなければならないからだ。そしてそれを直視し、振付家とともに受け入れた彼・彼女らの姿が美しすぎて涙が出る。

アフタートークで、演出の絹代さんが「人の短所の方が絵になる」というようなことを言っていて、生徒たちが短所を発表するところから『1999』の制作は始まったらしい。なるべくなら直視したくない自分の身体的・性格的なコンプレックスをみんなのまえで言って、果てはデスメイクをして舞台に立ちそのことを大声で言うだなんて、過酷だ。でもそれを面白さとして、ありのままで何が悪いんだ的な感じで、吹っ切った状態で演者たちは演じきっていた感じがある。

ほぼ妄想で、稽古のプロセスを考えてみる。

10人の演者は、演出家に向かって自分の短所を語り、自分が思う私(=私A)を見せる。演出家は、それを語る彼女たちが生きているだけで面白いしキラキラしてて最高って思っている。その短所もまた魅力だ!と思って、演出家の世界観/言語で彼女たちの像(=私A’)ができあがっていく。「恐怖の大王」というメタファーを着せつつ、彼女たち自身のコンプレックスを聞き取ったままに、台本・演出・振付を手渡していく。私Aが、演出家への信頼のもとに、私A’を受け入れて、それを舞台上で見せていく。そうすることで、それまでと大きくは変わっていないが確かに新しい私になっていくんじゃないか。

ぼくも高校生のころ、座高が高い(=足が短い)のを気にして腰を曲げた座り方をしていて腰痛になったり、ガリガリの身体を筋肉質に見せたいがために腹筋と大胸筋ばかりを鍛えて背筋が弱くなったりしてたなぁ、とか。あのころに自分の身体と心を受け入れろ、とコーチしてもらえていたらその後の人生違ったと思う。

例えば、占いとか、あとはデザインとか、カウンセリングとか、「クライアント」がいて、その人の言葉を聞きながら進めていく仕事ってたくさんある。多くの場合、クライアントは問題解決を求めてくる。それに対して「こうすべきだ」と解決案を提示するような答え方もある。でもそれって「こうしなさい」という強制になりかねないんじゃないか、とも思う。この手の仕事の大前提って、クライアントが問題だと思っていることが何かとか、どうしたいという願望が何かとか、そういうことをひっくるめて、存在それ自体を肯定するような仕事なんじゃないかと思う。その上で問題が解決することがあればそれでもいいし、そもそも問題じゃなかったってこともありえたりする。

教育の目的の1つには、「人が自由に生きられるようになる」ということがあると思っている。特に芸術教育の場合。「自由」の対義を仮に「強制」だとする。でも、完全なる自由はなくて、必ず制約や要求があって、その制約や要求にただただ従っていると「強制」されていることになるが、制約や要求のことをよく知り、受け入れることは「自由」に近づいていくことなのだと思う。そして、自分にかかる制約として最も卑近なものは、自分の身体と心だ。そのありのままを受容することには、「強さ」が必要だ。その強さは個人から発生してくることは滅多にないだろう。自由になるための強さって、最初は誰かが包み込むような優しさで「そのままで大丈夫」と安心させたり、力強く励ましたりすることで、他者から与えられるものなんじゃないだろうか。


シンプルな「いま・ここ」における、力強い存在の肯定。音楽も最高だったし、きめ細やかな演出のあれこれとか、10人それぞれの輝きについてとか、しゃべりたいことはまだたくさんある。あー一個言いたいのは、高校の校長先生が始まる前に挨拶するときにさりげなくしていたデスメイクの素敵さと、そのときのBGMがキリンジの『悪玉』でそれが作品の内容をなぞるようで、めちゃめちゃよかった。

2月の東京公演を、楽しみにしている。



*関連する記事はこれ

2016/03/28

劇中劇中劇、お遊戯、事実 ー三月企画『GIFTED』を観た

劇団「ファイファイ」の野上絹代さんが、新しく「三月企画」というプロジェクトをはじめた。その旗揚げ公演である『GIFTED』を観てきた。http://www.kinuyo-marchproject.info/



絹代さんとは2012年にアーティスト・イン・児童館でファイファイを呼んで『Y時のはなし』の公演をやってもらった時からの付き合いがあって、2014年には水戸芸術館「拡張するファッション」やアーツ前橋「服の記憶」といった展覧会でFORM ON WORDSのファッションショーの構成・振り付けをしてもらった。いまのココイクの仕事でもお世話になった。尊敬する姉のような人だと思っている。今回の公演『GIFTED』では、ファッションショーの音楽を作ってもらったmother terecoが音楽を担当していたし、彼らの仕事と「ビッグバン」っぷりが見事だった。

演劇は普段なかなか見に行けないけど、見るのが好きだ。目の前の生身の人間が、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりして次々とイリュージョンさせて別の世界を立ち上げちゃうんだけど、触れようと思ったら触れられる身体や声はやっぱり目の前にある。目の前で巻き起こる言葉や声や歌や音がグルーヴして、観客のきもちがごちゃ混ぜになっていく。そういう感じの演劇を見るのが好きだ。

『GIFTED』は「時間はちょっとしたことで操れちゃう」という話から始まり、序盤では、絹代さん自身や役者の方々のプライベートな経験なのかもなと思われることがポツリポツリと語られる。小さな男の子を育てていて、同時に親の介護に週に一回行っていること。3人の子どもは家を出ていて、夫は7年前に先立ったこと。

子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。

本人と思われる語りからはじまって、保育士、子ども、母親、ママ友、おばあさん、介護士と役者はめまぐるしく役を入れ替えて演じていく。はじめは役を着ていない個人として語り、子どもの役をやり、親の役をやり、高齢者の役をやり、子どもの役の中で魚や動物の役をやり、その切り替わりのドタバタ感が可笑しくて可愛い。とくに子どもと母親のやり取りは、役者自身の経験の再現だろうなーと感じるし、それをプロの役者がやるものだから描写が細かくて楽しい。

お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。

クライマックス。子どもたちの卒園式のお遊戯会の演目を決めきれずにいた保育園の先生が、げっそりした顔で「浦島太郎はやらず、宇宙のはじまり、ビッグバンをやります」と言いはじめる。「今あるものが全部ないのがビッグバン以前です。そのために、みんなのことをなくしてみせます!」みたいなことを言って、子どものお絵かきのような絵を使ってタイムスリップが描かれ、戦争から江戸時代、原始時代から恐竜の時代へと遡っていく。その中で漂う女の子が、声や、音の裂け目を発見して、ないものからあるものが見つけられていく。

ありったけのエネルギーを使い、絶妙に微妙な手作り小道具を使い、これまた絶妙にダサいダンスがあり(これが最高すぎた)、大人が全力で大声を張り上げながらビッグバンをお遊戯していて、それがはじけた後、それはみんなそれぞれに事情や生活をもった個人なんだってところに還っていく。

過去の経験や記憶、お遊戯が媒介になって、嘘と本当とがごちゃ混ぜになって、今この時代を生きてるっていう事実が、今目の前で演劇になっているんだなぁと感じた。

そうそう、『GIFTED』を見て感じたのは、演者が観客に向けてなにかを物語る手法として演劇があるというよりは、演者も観客も含めてそこに集う人々の経験をごちゃ混ぜにして今ある事実とか生を肯定するものとして演劇がある。みたいなことだった。こういうの、なんていう概念なんだろう。

こんなふうに役者の個人的な経験が反映されまくるものって、好みは分かれるかもしれないけれど、この作品の世界への肯定感がぼくは大好きだったしずっと笑ってたし、ラストのラストでみんながある言葉を慟哭する場面は泣いた。

そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!

*関連する記事はこれ




2011/10/12

『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会

Port B『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会に行ってきた。

去年『完全避難マニュアル 東京版』のスタッフをさせてもらっていたけれど、今年のPort B はまた違う。震災と原発の問題に端を発し、「政治」と向きあうプロジェクト。靖国神社の桜の木の下に埋まる死者の話と、一度も使われずに廃炉になったオーストリアのツヴェンテンドルフ原発の話でこの集会は幕をあけた。

「国民投票」あるいは「直接民主主義」という題材で質疑も血の気の多い感じだったし、豊島公会堂という会場の雰囲気もあったんだろうけど、運動の時代にスリップしたのかと思った。いや、本当に運動の時代に再び突入しているのかも知れない。

このプロジェクト約一ヶ月の期間中、東京と福島の中学生の「声」をあつめるキャラバンカーが、東京と福島の各所をめぐり、そこで昭和の、日本の夢の時代を生きた巨匠たちの話を聴くフォーラムを開き、観客にはある「投票」をさせる、という。まだなんだか分からないからこそ、体験してみたいと思うのは、「まだ生まれていない人たちと死んでしまった人たちの『声』を聞く」その方法の模索へと向かっているからだ。ハンス=ティース・レーマンの「政治の境界は"時間"である。政治が統治できるのは"生きているもの"だけ」という言葉に従って考えて、政治の統治の外側にいる人からも「声」を集めるための仕掛け、ということなのか?「"政治の時間に"まだ生まれていない人たち」の表象としての中学生なの?すると、死者を暗喩するものは?

わからないことだらけのこのプロジェクト、しかしこのオープニング集会は面白かった。ぼくがここで思い出していたのは、大学の授業で聞いた、古代ギリシャの直接民主制の議会の場の話だ。古代ギリシャの都市国家では、住民全員が広場に集まり、ある議題について大勢で叫び合うという場面があったそうだ。そこには意見を言う順番も何もなく、ひたすら怒号が響きあう。しかし、その広場の轟々とした"うねり"のトランスの中で、ある一つの合意へと向かっていく、というような話だった。クラブみたいだな、と思っていた。(うろおぼえ)

ぼくたちは個人でありながら、同時に複数の「声」を宿した身体である。(山本高之さんの《CHILDREN PRIDE》も、この視点で見ることができる)  なぜなら、いろんな人の意見や考えに影響されながら生きているし、それは他者の声を宿して生きることでもあるからだ。

キャラバンカーがいろんな「声」を拾い上げていくところまではなんとなく想像できる。インタビューやフォーラムというかたちで拾い上げられた「声」が集まり、古代ギリシャの広場とは違う、結論に至らない、変な形の"うねり"が、ウェブ上でテキストになって可視化されるんじゃないかなー、というのも期待している。そして更に楽しみなのは、きっと、観客や出演した人、個人の身体が変わるんだろうな、ということだ。宿していた「声」をシャッフルされたら、それは身体が変わるということだろう。これは自分で体験してみないと分からない。楽しみだ。



2011/08/25

0824_ショーが終わって


子どもたちがファッションに触れるって、ぼくはなかなか難しい事だなと感じた。

感想を聞いてみると、緊張したけど出られてよかった、とか、次は自分も出演したい、とか、いい経験になってよかったと素直に嬉しい。難しいのは、スポットライトを浴びることができるステージなら他にもたくさんあるし、子どもが関わるファッションはたくさんある、ということだ。ぼくたちは、いや、《Form on Words》は彼らにそれ以上の問いを残すことができたのだろうか。いわゆる「子どもらしさ」「ファッションっぽさ」を乗り越えることができたのかな。それはこれからが楽しみなところ。

それ以上に、一般の人からモデルスカウトしたり、児童館の工作室を使わせてもらっていたりして、いろんな人が関わっているわけだから、あらゆるトラブルシューティングをしなければいけなかったし、心地良い場になるように設計しなければならない。それが結局、ことばに基づく新しい形につながっていくわけだし。

ありったけの反省と、確かな前進。

2011/02/06

2011/02/05 卒業制作展2日目

現在開催中の卒業制作展、連日たくさんの方がお越しくださっています。


昨日は、中村児童館のあんどーなつとちえちゃんを招いて、「公開編集会議」と題したディスカッションを展示会場で開催。徹底して子どもを中心に据えた二人の視点は、論文を再構成する上でとても参考になる。録音を聞きなおして、あわよくば文字に起こして、さらに発展させていきたいと思います。ひとまず、第1部の《仕掛け編》はこのブログに公開しようかな。今回の卒論は、再編集して読みやすい形にして、何かしらの方法で流通させたいと思っているのです。小さい本にしたいなぁ。できれば500円ぐらいの文庫本サイズとかにしたい。



Nadegata Instant Partyの山城さんも今日展示見に来てくれたし、マッカリトークのメンバー石幡さんも、事務局の山口さんも来てくれました。大学-活動-プライベート、アイデンティティの複数性を行き来した感じでした。

そのなかで、今回チャレンジしたエピソード記録を山城さんにも安藤さんにもちえちゃんにも、楽しんでもらえたというのがすごく嬉しい。上手く機能するか不安だったんだけど、「行間を読む」という言葉を体現するかのように、読み手の方々はエピソードとエピソードの間に様々なことを想像したんだろうと思います。その想像を喚起したという意味で、成功だったのかと。

そうか、"行間を読む"というのは、"読む"という言葉は使われているけど、実際には"想像する"ということだから、読者によるイメージの創造だと言えるわけだ。これは。

そしてそのまま大友良英さんの船上ライヴに駆けつけ。

井の頭公園の森のざわめきに呼応するように響くノイズの音、「私にはセンスがないからわからないわ」という通行人の声、「こんな事やっていいと思ってんのか!」とドテラを着たおじいちゃんの怒号、そしてやがてぼんやりと見えてくるメロディ。そして、メロディの予感が沈んでいくと共に、浮かび上がる人びとの足音や囁き。

とってもよかった。

その後、ベトナム料理を食べて、ティーラテを買ってもう一度井の頭公園を散策。緩やかに一日が終わっていくのを、久しぶりに噛み締めるように味わっている。マンガでも読んで寝ます。

2011/01/10

2011/01/09 「音遊びの会」&「ダブル・オーケストラ」

1月9日 水戸芸術館「アンサンブルズ ―共振」関連企画
「音遊びの会」&「ダブル・オーケストラ」

揺らいでいるもの、ぼくたちが戸惑ってしまうものを、「枠」に収めてみると、「枠」自体が揺らいでしまう。


ぼくが蓄積してきたステージの経験を、ステージの上から揺さぶられるとは思って無かった。「枠」の使い方を学ぶ機会になった。

ていうかね、障害者が音楽やってるから素敵ね、とかそんな話じゃないんですよ。演奏として面白くなるように、「表現」のレベルで彼らは実践している。「芸術と福祉」みたいな言い訳はここにはない。それがかっこいいんですよ。「この子達こんなにがんばってるんだから、聞いてあげてくださいね」と押し付けるのではなく、「ここでこんなコト起こってるけど、どうですか?どう思いますか?」と強烈に問いかけてくる。問いかけ。表現の重要なスタンス。

今回は、現場スタッフでこの企画に関わっていました。ステージ上とその裏で彼らに会うことができたのは、本当に幸せでした。ぼくのわがままを聞きいれて現場スタッフをさせてくださった竹久さん、ありがとうございました。

2010/11/30

11/28 水戸芸術館「アンサンブルズ・フェス」

オープンミーティングの翌朝、もぞもぞと起きて東京駅からバスに乗り込み水戸へ移動。

大友良英「アンサンブルズ2010 共振」のオープニングイベント「アンサンブルズ・フェス」へ。展覧会場のいろんな箇所で、即興演奏やセッションが始まる、フェス。山本精一、山本達久、テニスコーツ、梅田哲也、七尾旅人、カヒミ・カリィ、そして大友良英。

美術館の中でパフォーマーが台車に乗ったり歩いたり、移動しながら即興や予定していた曲を演奏する。演奏する人の奇妙な身体性を浮き彫りにする異質な風景がところどころに立ち上がっていきます。しかし、徐々に観客が地べたに座り「客席」をつくりはじめたところから、異質さが薄れていきました。ぼくたちは音楽の消費の仕方を知っています。体を揺らしたり、手拍子をしたり。それをし始めた瞬間に、美術館であるにも関わらず音楽を消費する空間になってしまったように思いました。美術をもって、僕達が知っている音楽の消費方法を解体しようとしたのかなぁ。もう少しラディカルな解体が観たかった。

展覧会はまだ見ていない、と言っておきます。繊細な音たちの集合はきっと素晴らしい体験になるはず。もう一度行こうと思っています。

大友良英「アンサンブルズ2010-共振」 
欧文表記:
Otomo Yoshihide "ENSEMBLES 2010: Resonance"
会期:2010年11月30日 (火)~2011年1月16日 (日)
開館時間: 9:30~18:00 *入場は17:30まで
会場:水戸芸術館現代美術ギャラリー
休館日:月曜日・年末年始12月27日 (月)~2011年1月3日 (月)
*ただし1月10日(月・祝)は開館、翌11日(火)休館
入場料:一般800円、前売・団体(20名以上)600円
中学生以下、65歳以上・障害者手帳をお持ちの方と付き添いの方1名は無料

2010/11/10

11/09 飴屋法水『わたしのすがた』

フェスティバル/トーキョーで上演されている飴屋法水さんの『わたしのすがた』を鑑賞してきました。細く長い針が突き刺さるような、ぬめっとした温風のような、遠くの方から確かに誰かに呼びかけられているような、そんな体験でした。

劇場という空間を脱ぎさったこの作品は、想像以上に強い力でぼくの身体に介入し、締め付けてきました。それだけ強度の高い作品なので、用心が必要かも。でも、必見。

2010/10/29

10/28 快快『アントン、猫、クリ』

10/28 横浜はSTスポットに快快の『アントン、猫、クリ』を観に行った。

久しぶりにお金を払って、舞台に行った。STスポットは小さな会場で、客席とパフォーマーが近くて、汗とか吐息とか、体温まで伝わってくる。もう、めっちゃくちゃ楽しかった。笑わせるし、考えさせるし、気持ちいいのだ。ポイノさんが作曲したという、あの2分くらいの四重奏が凄まじい。言葉と風景と、人の仕草と、物語を、まぜこぜにしていくんだけど、それがただのカオスじゃなくて、一定のルールとそのずれの中で繰り広げられるから気持ちイイのです。ルールにハマった瞬間に「あ!」と思い、ズレている間に焦らされた気持ちになります。

2008年に一度公演しているこの『アントン、猫、クリ』だけど、これは演出の篠田さんが住んでいたアパートで起こっていた、猫をめぐる物語を作品にしているそうです。実際に近所に住んでいた人たちにインタビューした時の音声も、劇中に流れています。




第2部はゲストで来ていた、小沢剛さんとポイノさんが作品についてコメントしていくのですが、この二人と快快は10月3日に府中市美術館で「トレース・ザ・できるかな」というパフォーマンスをしています。お菓子の缶や布地を、白く塗って、その模様をもう一度描く、ということを府中市美術館で実践している小沢さん、風景から読み取れるものを言葉にしてオーケストラにする『音楽映画』をつくったポイノさん、その作品を演劇に引用した快快。という関係らしい。このオーケストラを、観客として体験してきましたが、なかなか難しい。

12月のトークの為に、小沢さんにも挨拶できたし、この間オバルのライブで会った篠田さんにも再会できた。今度、ナデガタのリサーチの日か、小沢さんのトークの時に、もしかしたら来ていただけるかもしれない。篠田さんが見てる児童館ってどんななのか、聞いてみたい。他にもナデガタ中崎さん、アサダワタルさん、のびアニキなどなど客層も面白い。

驚いたのは、毎回の公演のDVDを丁寧に自費出版してるってところ。今回も受付のところで販売してたけど、「小指値」のころからやってるらしい。今回はHEADSからでてる『Y時のはなし』を買ったので、今度マッカリでみてみます。