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2011/10/17

文脈化しにくい「思い出」

「子どもらしさ」を乗り越える方法を考えたいと思っている。

言葉、建物、プログラム。この3つがうまく合わさって、子どもは子どもらしさを、学生は学生らしさを、老人は老人らしさを手に入れていく。「らしさ」に基づいて自分を文脈化し、語ることができる。

人を言い表す「言葉」がある。「わたし」「あなた」「高齢者」「障碍者」「子ども」「学生」「社会人」などなど。それらの言葉を使ってアイデンティティを記述する。その言葉を補完する「建物」がある。「学校」「老人ホーム」「オフィス」とかそういうもの。これらにしたがって、所属・所在を記述する。こうして自分以外の人が、この人が誰だかわかるようにするための仕組みが出来上がっていく。そして、その枠組みの中で物語を生む「プログラム」がある。学校なら授業、オフィスならデスクワーク、老人ホームなら、お遊戯、という具合だ。ぼくは、ここでこんなことをしたよ、あんなことをして楽しかったよ、と語るネタになる部分だ。ネタを組み立てて文脈にしていく。

ここでの問題は、ネタが用意されている、ということである。そしてそれは、「楽しかった」「◯◯だった」と語られることを予定している。修学旅行の「思い出づくり」とかまさにそれ。「思い出」は「らしさ」をつくりだすシステムの重要な要素だ。

アー児を通してぼくは、参加した人のために、語るためのネタを用意している。それが「思い出」になるといいなと思っている。しかし、それは「子どもらしい思い出」との距離をとって、文脈化しにくい「思い出」になるよう仕掛けている。

子どもは、子どもらしくない自分の要素(文脈化できない要素)に気づいて、オシャレをしたり、音楽の趣味を変えたり、旅をしたりして「別の文脈」を引き寄せて、少しずつ大人になっていく。

アーティストの作品は、もちろん子どもらしくない。その中に自分の「思い出」の断片があるとしたら。その断片に、どんな文脈を引き寄せるのかは彼ら次第。面白い大人になってほしい。

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