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2011/10/19

主体か、メディウムか

ー"声"の向こうに"壁"が見える 《Referendum ー国民投票プロジェクト》

《Referendum ー国民投票プロジェクト》のキャラバンカーとフォーラムを観てきた。

キャラバンカーの中で鑑賞できる中学生たちのインタビュー。福島と東京の中学生の"声"は、自信をもって言えているものと、とまどいうろたえているものと、そして用意されたようにスムーズに答えているものがあった。自信をもって言えている部分は、個人的な習い事や趣味のこと。それ自体は彼らが自分の身体から離れた所で起きていることに対して、自覚をもって何かを言える、政治的な主体になりえていないことをあらわしてる。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と思うような中学生の表情・たじろぐ仕草が焼き付いてはなれない。彼らを戸惑わせる質問と、彼らの個人的な生活のあいだにはへだたりがある。映像を見ていて浮き彫りになるのは、その"へだたり"だ。あるいは想像力をさえぎる"壁"と言い換えてもいいかも知れない。彼ら中学生はその"壁"を前景化させるメディウムである。"壁"が前景化したところで、映像化し"中断"しているのがこのDVDたちであるように見えた。

キャラバンカーが東京をめぐり、福島に戻った時、福島と東京の中学生のメディウム同士が出会うとき、その"壁"の秘密に出会えるのだろうか。この一ヶ月、目が離せないプロジェクトになってきた。


ー意思決定をする子どもたち 山本高之プロジェクト《きみのみらいをおしえます》

同時に進行している、自分が今、学びながら実践しているプロジェクト《きみのみらいをおしえます》。山本さんは、「占いを自分でつくってみて」と投げかける。そこに、子どもがつくった見本は見せない。世界各地の占いの例を見せて、身近な素材でそれをどうやってつくるか、その方法は示さない。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と子どもたちは思っていたはずだ。占いのルールの作り方や小屋の作り方、衣装の作り方は、スタッフの提案や子どもたちの閃きをもとにつくられたものだが、それらはすべて「どうしよう」という戸惑いを経て生まれたものだ。こうすればできるよ、という方法を指定されたものではない。

想像力の射程範囲内の、少し外側にゴールが設定されている。がんばらないと辿りつけない。少しずつ、つくりながら、想像力を拡張していく感じだ。想像力の限界と、その先にあるゴールの間の余白で、彼らの知っているイメージ・知識が総動員される。そこで、イメージのコラージュができあがる。子どもたちはメディウムになって、彼らに誰かが与えたイメージや知識を反映する。

しかし、山本さんは、その想像力の拡張を、撮影することで"中断"させる。もっと練習したり、クジや占いの文言のバリエーションを増やすこともできるが、ある程度で"中断"させているのだ。しかし、この"中断"によって、新しい時間が生まれる。それは映像になった自分の姿をウェブサイトや展覧会で観るときだろう。フレームで切り取られることによって、別の「占い遊び」だと思っていたものに意味合いが付与される。こうして、子どもたちの経験は、「遊び」「撮影」「展覧会」「インターネット動画」というように、メディウムの連鎖の中を移動する。実際に制作していた時とは違う、経験の拡張がすすむ。

一方で、子どもはここで意思決定者でもある。何をつくり、どんなふうにするかは彼らが決めている。彼らが決めた「あなたの運勢」を、他者に伝えるリスクと快を両方負うことになっている。決して政治的な意志決定でないとしても、彼らは決定し、伝えることを、日常的に実践している主体であるようにも見える。主体としての子どもと、メディウムとしての子どもが同居している状態をつくりだしている。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクトを運営しながら、観客としてPort B《Referendum》を体験する。その間で、考えたこと。





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