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2012/06/05

記憶、着床、生息

山本高之さんと、南田中児童館へ。去年11月につくった《きみのみらいをおしえます》の映像をみんなに見せた。 

彼女たちは自分たちがどんな「占い」をつくったのか憶えていたし、他の人の占いも紹介するくらいだった。半年の時を経て、記憶がしっかりとした質感をもって、彼女たちのなかに息づいているのだということを、強く感じた。

彼女たちは、自分の「意志」で、このよくわからないプロジェクトに参加し、作品をつくりあげた。その意志は山本さんが引き出したものであり、その意志に基づいて山本さんとぼくらと「契約」をした。経験を自分の物にする、ということを前提にプロジェクトに挑んだ、ということだ。

「占いをつくる」という意志は、「占いをつくる」という一連の出来事を、自分の中で呼吸し続ける記憶に変える。意志によって出来事は着床し、生息する記憶になる。

しかし、この意志というのもすこぶる曖昧なものだと思ってしまう。やってんのかやらされてんのか、本当のところはどうなんだろう?という疑問がずっとある。

吉野弘の詩「I was born」は、生まれるということが受動態であって、人は自らの意志で生まれでたのではなく、誰かに生まれたのであって、そもそも受動的な生を生きるということ。その前提に経って、なお「意志」とは何か。

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