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2012/06/05

記憶、着床、生息

山本高之さんと、南田中児童館へ。去年11月につくった《きみのみらいをおしえます》の映像をみんなに見せた。 

彼女たちは自分たちがどんな「占い」をつくったのか憶えていたし、他の人の占いも紹介するくらいだった。半年の時を経て、記憶がしっかりとした質感をもって、彼女たちのなかに息づいているのだということを、強く感じた。

彼女たちは、自分の「意志」で、このよくわからないプロジェクトに参加し、作品をつくりあげた。その意志は山本さんが引き出したものであり、その意志に基づいて山本さんとぼくらと「契約」をした。経験を自分の物にする、ということを前提にプロジェクトに挑んだ、ということだ。

「占いをつくる」という意志は、「占いをつくる」という一連の出来事を、自分の中で呼吸し続ける記憶に変える。意志によって出来事は着床し、生息する記憶になる。

しかし、この意志というのもすこぶる曖昧なものだと思ってしまう。やってんのかやらされてんのか、本当のところはどうなんだろう?という疑問がずっとある。

吉野弘の詩「I was born」は、生まれるということが受動態であって、人は自らの意志で生まれでたのではなく、誰かに生まれたのであって、そもそも受動的な生を生きるということ。その前提に経って、なお「意志」とは何か。

2011/11/07

プラクティカルな子ども

山本さんのプロジェクトを通じて、自分で考えた価値体系をもって他者を占い、表彰し、路上に繰り出して自分の考えを社会に伝える、という経験をした子どもたちが、たしかにいる。それはメタファーでもなんでもなく、事実。

山本さんを招待し、ぼくが子どもに対してやったことは、新しい体験をさせ、新しい世界の見方をあたえた、ということもできる。だけど、何よりも彼らの行動を変えた事のほうが大きいように思う。

児童館でいつものように遊びに来ていて、なんとなく「占い教室」や「トロフィー工作」に参加して、がっつり小屋やトロフィーをつくることになったり、外に出て「パレード」をすることになったり。(もちろん裏では職員さんたちの手厚い協力があって成り立っているのだけれど) 最初は、「ちょっと覗いてみよう」というぐらいに思っていたかもしれない。なにげなく選んだ行動だったのだけど、最後にはプロジェクトを担う主体になっていた。

そう、彼らはまぎれもなく、プロジェクトのメンバーだった。最後には交換不可能な個人だった。いつものように遊びに来た児童館で、気がついたら、すごく小さな"実際の"社会、政治、経済に参与していくことになっていた。

2011/11/06

4つのシーンの続き



「終わってからいろんなことに気がつく」ということをわかっていながら、本番中にぬかりなくできたかどうか。

まずはじめに観たい「シーン」があって、そのために事を起こす。その「シーン」を成立させるために必要な「素材」をあつめなくてはいけないし、「場所」を確保しなければいけないし、その「シーン」の続きまで想像しなくてはならない。「シーン」を中心に、前後の時間を広く想像し、行動し、形にしていくのだ。

6月から動き始めた山本高之プロジェクト、ワークショップ・シリーズ。4つのプロジェクトがすべてクランクアップ。おつかれさまでした。4つの「シーン」の続きを、これから。

2011/11/05

芸術道路公団

明日で山本高之さんの一連のワークショップ・シリーズの現場は最後になる。これが終わったら展示、ドキュメントの編集の作業になるわけだけど。無事撮影が終わるように、行動をするばかりだ。

現場の頭で動くときは、ディティールまで全力で想像し、駆動しなきゃいけない。そのスイッチをいれるために、身体も温めておかないといけない。大会の本番。プランニングの頭で動くときは、くまなく広がりを想像し、軽やかに広く移動しなきゃいけない。地図を広げておかなくてはいけない。いずれにせよ、人事を尽くす、ということに変わりない。(人事を尽くせ、天命はない)


さて、昨日観た夢のはなし。車に乗りながらラジオを聞いていて、「日本芸術道路公団」という団体の活動が紹介されていた。それは、どうやらぼくが設立したNPOの名前のようだ。車は高速道路で、名古屋に向かっていた。まったくキテレツな名前だが、朝起きてもそれを憶えていたし、音感も気に入っている。確かに"道路"をつくる仕事には興味があったし、この音の響きを好きになりつつある。

明日で最後の現場。山本さんとは、マッカリで一緒に生活をしていたし、飯もよく一緒に食べていたので、いなくなってしまうととても寂しくなる。



2011/10/27

いいと思ったら、まぜかえす

開進第一小学校の校長室にて
《まちのみなさんありがとう》の撮影が完了した!
(http://jidokan.net/blog/2011/1026-998/)

昨日のCAMPのトーク〈実践と判断〉にて、

「表彰式がうまくいって、喜びと喜びで終わってしまったら、その解釈で止まってしまう。例えば、警察の人の『うわ、でかいな...』とつぶやいた微妙な顔を、彼(表彰した子)には忘れないでほしい。」

というような内容を語っていた山本さん。いくつもの解釈のレイヤーがあって、そのどれかにかちっとはまってしまうのではなく、もっといろんなことを考えられる可能性を、彼の作品とその体験はもっている。


今日の最終日は学校の校長先生に「いろいろな話をしてくださってありがとうございます賞」を届けにいったわけだけど、届けたHくんと山本さんは、終わったあとの帰り道、こんな会話をしていた。

山「校長先生、いつもどんな話してくれてんの?」
H「え、わかんない」
山「わからんの?わからんかったら、『いろんな話しを...ありがとうございます賞』あげんでもよかったんじゃないの?」
H「えー...」

表彰できてよかった、と安心しているHくんのなかに、新しい疑問を生む。「あぁ、たしかにあれでよかったのかな?」とHくんが思ったかどうかはわからないけれど、こうして、経験を複層化・多面化している。山本さんの作品をみていると、あるいは本人と話をしていると、いくどとなくまえぜかえされる。ほんとうにラミエルみたいだ。





2011/10/26

子どもとの約束、報酬、経験

今日は午前中、近所の「ごたごた荘」に挨拶に行き、上石神井児童館に《チルドレン・プライド10.30》のチラシを渡して、あずかってもらってたプラカードを持ってかえってきた。そのあと、湯島児童館におじゃましてドッジボールして遊んで、宣伝。夜は、林立騎さんとハンス=ティース・レーマンさんの「クライストと演劇」の対談を聴きにいった。

子どもたちには「これ、参加したら何かもらえるの?」と聞かれるけど、そういうことじゃない。とにかく楽しいし、やったら気分がいいよ!と伝えている。そりゃまぁ「本郷いちょう祭り」だから、何かあるかもしれないけど、そういうことじゃない。たしかに、チルドレン・プライドは路上を歩くし、声を出すから緊張はする。自信をもって大きな声出してほしいなと思うし、その緊張から解放されたときの達成感はひとしお。そういうことなのだ。

もし仮に、これが子どもをパフォーマーとして"雇う"のであれば、話はべつだ。それに応じた報酬が必要になる。でもこのワークショップは、彼らに刺激的な体験を提供することを約束している。達成感とか、表現の自由とか、そういうものだ。だがそれは、何かを解決したり、有益な技術を手に入れたりするものではない。クライストの演劇同様、何度も問い直すことができる、マルチプルな経験なのだろう。あぁ、おもしろい。

山本さんのプロジェクト、まだ3つ残っている。しかし、それもあと2週間で一区切りだ。次はない。そのときはもう新しい時間がはじまっている。終わったら寂しくなるのだろうな。今できることをすべてやりきらないと、きっと後悔するだろう。それは分かっているのだから、今、全力で想像して、現実にしていけ。


2011/10/24

フットワーク、ネットワーク

もともと、なりふりかまってなんていられないはずなのだ。まったく、気を揉んでいたのがあほみたいだ。

今日は本郷の児童館や学校を回って企画の説明をさせてもらった。こうやって顔を合わせると次に繋がっていく。顔が見えないと、なかなか動きも出てこない。フットワークはネットワークになり、ネットワークを充実させるためにフットワークがある。

10月30日(日)《チルドレン・プライド10.30》いろんな子が集まるといいな。

2011/10/19

経験に"問"をしかけるために

子どもの経験に"問"をしかける。あれは一体なんだったんだろう?と問い直すときが、何度も何度も訪れるような、マルチプルな経験をのこす。子どもに関わるものにおいては、そういうワークショップ、アートプロジェクトがいいと思っている。

そのためには、その経験に"快"があったほうがいい。楽しかった、気持よかった、面白かった、興奮した、そういうたぐいのポジティブな感情だ。でもそれだけじゃいけない。

山本さんのプロジェクトを通じて思うのは、子どもの意志、自分で考えることが必要だということだ。彼らが選択した経験であることだ。しかし、そこには親の意志や先生の意志が少なからず介入する。親、先生、児童館職員、子どものまわりにいる大人の、マルチプルな経験をのこすためのネットワークがいる。

自分で選んだことが、楽しかった、面白かったとしたら、それはまた思い出したくなる経験になるだろう。ただ、それは誰かや何かへの"憧れ"であっていいのかな、とは思う。ファッションに憧れる、ショーに憧れる、あるいはそこにいる大人に憧れる。そういう大人になりたい、そういう業界に行きたい!と思った時点で、ブルデューの言う再生産の構造に組み込まれるんじゃないかな、と思う。感動は自分でつくった何かに対してあるべきで、大人は憧れようとする子どもの視線をはね返すか、煙に巻くほうがいいだろう。しかし、子どもに受け入れられると大人は嬉しいのだ。それはとても難しい。


ところで、「マルチプルな経験」のヴィジュアル・イメージは、『エヴァンゲリヲン新劇場版・序』の「ラミエル」だ。忘れているときは正八面体をしていて、外部の刺激(敵の攻撃)によって、思い出す(反撃する)ときにかたちを変える。そんな感じだ。








主体か、メディウムか

ー"声"の向こうに"壁"が見える 《Referendum ー国民投票プロジェクト》

《Referendum ー国民投票プロジェクト》のキャラバンカーとフォーラムを観てきた。

キャラバンカーの中で鑑賞できる中学生たちのインタビュー。福島と東京の中学生の"声"は、自信をもって言えているものと、とまどいうろたえているものと、そして用意されたようにスムーズに答えているものがあった。自信をもって言えている部分は、個人的な習い事や趣味のこと。それ自体は彼らが自分の身体から離れた所で起きていることに対して、自覚をもって何かを言える、政治的な主体になりえていないことをあらわしてる。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と思うような中学生の表情・たじろぐ仕草が焼き付いてはなれない。彼らを戸惑わせる質問と、彼らの個人的な生活のあいだにはへだたりがある。映像を見ていて浮き彫りになるのは、その"へだたり"だ。あるいは想像力をさえぎる"壁"と言い換えてもいいかも知れない。彼ら中学生はその"壁"を前景化させるメディウムである。"壁"が前景化したところで、映像化し"中断"しているのがこのDVDたちであるように見えた。

キャラバンカーが東京をめぐり、福島に戻った時、福島と東京の中学生のメディウム同士が出会うとき、その"壁"の秘密に出会えるのだろうか。この一ヶ月、目が離せないプロジェクトになってきた。


ー意思決定をする子どもたち 山本高之プロジェクト《きみのみらいをおしえます》

同時に進行している、自分が今、学びながら実践しているプロジェクト《きみのみらいをおしえます》。山本さんは、「占いを自分でつくってみて」と投げかける。そこに、子どもがつくった見本は見せない。世界各地の占いの例を見せて、身近な素材でそれをどうやってつくるか、その方法は示さない。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と子どもたちは思っていたはずだ。占いのルールの作り方や小屋の作り方、衣装の作り方は、スタッフの提案や子どもたちの閃きをもとにつくられたものだが、それらはすべて「どうしよう」という戸惑いを経て生まれたものだ。こうすればできるよ、という方法を指定されたものではない。

想像力の射程範囲内の、少し外側にゴールが設定されている。がんばらないと辿りつけない。少しずつ、つくりながら、想像力を拡張していく感じだ。想像力の限界と、その先にあるゴールの間の余白で、彼らの知っているイメージ・知識が総動員される。そこで、イメージのコラージュができあがる。子どもたちはメディウムになって、彼らに誰かが与えたイメージや知識を反映する。

しかし、山本さんは、その想像力の拡張を、撮影することで"中断"させる。もっと練習したり、クジや占いの文言のバリエーションを増やすこともできるが、ある程度で"中断"させているのだ。しかし、この"中断"によって、新しい時間が生まれる。それは映像になった自分の姿をウェブサイトや展覧会で観るときだろう。フレームで切り取られることによって、別の「占い遊び」だと思っていたものに意味合いが付与される。こうして、子どもたちの経験は、「遊び」「撮影」「展覧会」「インターネット動画」というように、メディウムの連鎖の中を移動する。実際に制作していた時とは違う、経験の拡張がすすむ。

一方で、子どもはここで意思決定者でもある。何をつくり、どんなふうにするかは彼らが決めている。彼らが決めた「あなたの運勢」を、他者に伝えるリスクと快を両方負うことになっている。決して政治的な意志決定でないとしても、彼らは決定し、伝えることを、日常的に実践している主体であるようにも見える。主体としての子どもと、メディウムとしての子どもが同居している状態をつくりだしている。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクトを運営しながら、観客としてPort B《Referendum》を体験する。その間で、考えたこと。





2011/10/14

つくることは想像を現実にする

山本高之さんのワークショップ《きみのみらいをおしえます》が始まって3週間!南田中児童館に通い続けて、コツコツと制作をしている。いよいよ、明後日が本番。(http://jidokan.net/blog/2011/1011-965/)

客を写真に撮ると別のすがたが映る《ふくうらない》

ダンボールや布や絵の具や画用紙を使って工作をしていく。はじめ、オリジナルの占いを考えだしたときは、未だぼんやりとしたタイトル(「ハムスター占い」「とけい占い」「まと占い」etc.)と、なんとなくのルール(ハムスターがとまったところで、時計の針で、当たったまとで…)だけだった。





それが、実際に道具をつくり、小屋をつくり、衣装をつくっていくうちに、ぼんやりとした想像に輪郭が与えられ、形になり、そして自分が自分で考えた占いを実践するということが、現実になっていく。そうして、ぼくたちの想像力は拡張していく。

彼らの占い師としての功績は、ビデオに記録され、ウェブサイトで公開される。あるいは展覧会で発表されるかもしれない。そんな風になるとは、まだ彼らは思ってないだろう。そうなったとき、また別の現実に出会うだろう。

想像が現実になる。すばらしいじゃん!って思う。しかし、それは様々なリスクを取ることでもある。ドラえもんの道具が、その使い方を間違えるとえらいの原因になるのと同じように。夢を与えるとか、想像力を広げるとか、響きはいいけど、リスクを背負うことにもなるのだ。




2011/09/12

身近な言葉、でも?

昨日は《CHILDREN PRIDE 9.17》のために、警察に道路使用申請をしにいって、商店街や学校に挨拶回りをしにいった。児童館の館長と職員さんと一緒に。

上石神井児童館は駅前にあり、商店街のすぐ脇に入ったところにあるものだから、町会、商店街協会の一部になっていてすごくいい。

「今度児童館の行事で、子どもたちのデモ行進のようなものをやることになったんです」と挨拶をすると、
「デモ行進!?」と訝しい顔をされる。

団塊世代かそれより上の方は特に、「デモ行進」という言葉には敏感なようだ。ただ、それが「宿題を減らせ!」「引越しをさせろ!」という彼らの身近な言葉であることを話すと、クスッと笑ってしまう。そうやって笑ってもらえるのはいいのだけど、悩みの一つは、もしそこに「原発反対!」「民主党が◯◯◯!」みたいな政治的・思想的主張が出てきた場合、学校や児童館がそれを斡旋してると思われる可能性があって、それでは学校や児童館が困ってしまう、ということ。もしそういう(どういうのだかぼくもはっきりわからないけど)主張が出てきたときでも、出来る限り表現してほしいけれど。

彼らからどんなアイデアが出てくるか、楽しみであることにはかわりない。

2011/09/03

山本高之プロジェクト その始まりによせて

「未来を担うのは君たちです」と校長先生はよく言っていたけれど、当時のぼくたちにとって未来の姿をしている大人はどうにも頼りなかった。だからと言って、自分にできることはゲームをしたり遊んだりマンガを読んだりすることしかなかった。小学校の高学年になり、中学生になるにつれ、そのもどかしさは体の中にどんよりとした雲のように溜まっていった。

今を生きる子どもたちも、生活の中に見えない毒が入り込んでいることを知り、テレビの向こうで偉い人の発言が二転三転していることも知っているはずだ。見せられている世界に「裏側」があり、その「裏側」が混乱していることを感じているはずだ。とはいえ、彼らはその「裏側」に行く手段を持たない。行けたとしても仕方がない。そんなもどかしさを遠くのほうで感じながら、日々の遊びの中に入り込み、魔法使いやドラゴンを操ったり、モンスターを狩猟したりしてるんじゃないか。

アーティスト・イン・児童館2011年度招待作家、山本高之はその表現方法として子どもを相手にした「授業」を用いる。「問題」の説明、ワークシート、工作、発表というように、子どもたちが普段学校で経験している場面を再現していく。「山本先生」による厳しいダメだしもあるという。だがその授業は、子どもたちがこれまで傍観していた世界の「裏側」へと連れて行く。日頃見過ごしていたことをまぜかえすような世界へと誘う。山本はそうした子どもの体験を「いつもの授業みたいなかんじだろうと思ったら、よくわからないところに連れていかれてしまう感じ」と言い表す。 山本の作品とは、「授業」を反転させた仕組みと、戸惑いの中での子どもたちの思考の過程である。

だがそこには戸惑いだけでなく、世界の「裏側」を覗いてしまうような高揚があるのではないか。放課後の児童館で知らない大人と出会い、ワークショップという通路を通って知らなかった世界へと誘われる。2011年秋、アーティスト・イン・児童館は山本高之氏と共に、もどかしい日常に「裏側」への通路を開ける。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクト
《CHILDREN PRIDE 9.17》 /上石神井児童館
《きみのみらいをおしえます》/南田中児童館 
《まちのみなさんありがとう》/平和台児童館 
《CHILDREN PRIDE 10.30》/文京区内 某所 


2011/07/13

7月17日(土)オープニング・ミーティング



アーティスト・イン・児童館2011[予告編]
オープニング・ミーティング

ファッションショー、パレード、フェスティバル!?2011年度「アーティスト・イン・児童館」の新たな企画がいよいよ始動。多彩な招待作家3組による作品プランを紹介し、その中でいかに遊ぶか、来場者を交えてアイデアを広げるオープニング・ミーティングを開催します。プロジェクトを一緒につくるサポーターについての説明も実施。入場無料、予約不要です。子ども、地域、アートに関わる活動にご興味をお持ちの方、お気軽にご来場ください。
ゲストアーティスト:
西尾美也/山本高之/Nadegata Instant Party(中崎透+山城大督+野田智子)
※中崎透さんは都合により出演できません。ご了承ください
会場:アーツ千代田3331 東京文化発信プロジェクトROOM302
日時:平成23年7月17日(日) 18時~19時30分
   ※19時30分から20時まではサポーター登録をしていただける時間となっております
お問い合わせ▶
アーティスト・イン・児童館 実行委員会 事務局
〒178-0064 東京都練馬区南大泉3-14-27
mail: info@jidokan.net
tel   : 080-1207-1395(担当:臼井)
主催:東京都、東京文化発信プロジェクト室(公益財団法人 東京都歴史文化財団)、アーティスト・イン・児童館実行委員会

2011/05/02

2011/04/29 山本プロジェクト始動


4月27日-29日、山本高之さんが東京滞在中に、打合せしたり人にあったり、がががががっと企画の大枠をつくった。
27日はアートポイント計画ディレクター森さんと呑み、28日はリサーチで関わってくれる石幡愛さんと、29日は練馬区立美術館の真子みほさんとミーティング。打ち合わせづくしでおつかれだったので、最後は秋葉原のインド料理やでカレーとビール。



彼は、子どもたちの前で"先生"のように振舞うらしい。

子どもは"先生”との関わり方を知っているから、学校の作法で彼の話を聞く。そのなかで言われたことをこなしていると、どうも学校の授業と違う。何かが”理解できる”わけでもないし、特定の”技術が身につく”わけでもない。彼曰く「どこかよくわからないところ」に連れていかれてしまうと。

山本さんは、"学校の先生"という確立されている作法を活用してアートワークをつくる。それは社会の仕組みを反映しつつ、それを無意味なものに還すためなんじゃないかと思う。意味とは自明のものではなくて、無意味から見出されるものだし、状況によって変わるものだと思う。山本さんは「自分で無意味から意味を見出すことの(しんどい)自由」の領域へと、子どもたちを連れて行く。

アーティスト・イン・児童館では、このことを共有しつつ、"学校の先生"という児童館になじまない振る舞いをどう引き受けるかが焦点になる。スタートからゴールまでがはっきりしている山本さんの制作プロセス。それに対して、制作の過程にどんどん巻き込んでいくアーティスト・イン・児童館の方法論。山本さんの方法論をどうやって拡張するか。ここが見所です。