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2013/05/17

廃棄/モノづくり/コミュティ その2

東京芸大でのレクチャー「アートコミュニティの形成 ー廃棄/ものづくり/コミュニティ」の第1回目へ。東京都美術館「とびらプロジェクト」のオープニングレクチャーでもあり、ミルグラフから出版される『クリエイティブリユース ー循環するモノ・コト・ヒト』の収録講演でもあるこのイベント、午前の部に産業廃棄物を取り扱う株式会社ナカダイの中台澄之さん、午後の部に「ファブリケーション」の世界的なネットワークをつくるFabLab Japan代表の田中浩也さんの登壇でした。

その1では、ナカダイさんのレクチャーについて書いてて、そして後半は、午後1時から「リペア・デザイン」と題して、FabLabの田中浩也さん。ぼくが通っていた大学の先生でもあって、「626」というカフェをぼくが所属していた加藤文俊研究室と、田中浩也研究室で協働運営していたことがありました。ちょうどその2008年ころ、FabLabの活動を知ったそうです。

「WebからFabへ」というコンセプト。ブログやSNSを通じて「総表現者時代」と呼ばれて久しいが、言葉や情報だけでなく、モノづくりの領域まで民主化しているといいます。それは、PC上で設計したものを、3Dプリンターやレーザーカッターで切り出し、それを組み合わせることで、例えばiPhoneケースからイスや机まで、まるで工場でつくったようなクオリティで作り出せてしまう。


「ホモ・ファベル(=工作人)」という言葉にも使われている「Fab」は、「つくる・組み立てる」ということを意味しています。

で、田中さんが主宰している「FabLab」というのは「市民のためのデジタル工作室」ともいうべき場所で、世界各地にFabLabという名称の場所がたくさんある。先進国の都市だけでなく、インドの西側、道路も舗装されていないし電気もろくにまわっていないようなところにも、FabLabはあるといいます。http://fablabjapan.org/

そこで、小学生がインターネットの電波を受信するためにレーザーカッターと木片をつかって作った「Fab-Fi」は、その村の各家々で使われている、というエピソードが示唆的だったのは、必要な分だけつくりだすことができる、ということ。工場だと、1000とか10000とか生産して、それを全部使いきらなければなりません。

また、面白かったのはアムステルダムのFabLab(http://fablab.waag.org/)のことで、もともと古くなった邸宅をアーティストがスクウォット(不法占拠)してFabLab的活動をしていた場所を行政が認め、今では市民の仕事後の溜まり場になっている、という。「リペア・カフェ」と題して、家庭で不要なものを持ち寄って別のモノにつくりかえるワークショップなど、まるで部活のようにいろんな活動が展開しているみたいです。

中でも注目したのは、高齢者や障がい者の人たちから”使いにくい日用品”についての意見(というか不満)を聞き出し、その人が必要としている者をつくりだす、という活動。「リモコンにボタンが多すぎて困るのよ!チャンネルと音量の上下と、電源の3つだけでいいわ」という意見に対して、本当にそういうリモコンを3Dプリンターとaudinoでつくりだしてしまう、みたいな。

「クリエイティブリユース」に則した話では、「リペア」という言葉が使われていました。樹脂や木材から新しくつくりだすことだけではなく、すでにある役目を終えたものを、別の用途につくりかえる。紹介されたKevin Byrdのテーブル(http://blog.ponoko.com/2011/09/29/designing-for-exhibitions/)は、元の状態に戻すのではなく、別の面白さを付け加えるというFab的な文化を象徴していました。

面白いなぁ、と思うのは、この活動がまるで大人たちにとって「遊び」のようだ、ということ。みんなで集まってワクワクしながらものをつくって、自分の生活を面白くしていくこと。自分でつくったものを人に見せたり使ってもらったりするのは素朴な喜びに満ちてる。自分でつくった食べ物とかもそうだけど。

そうやって醸成されていくのは「文化」なわけで。人の溜まり場が生まれ、そこからモノゴトが生まれ、人の生活が少しづつかわっていく。遊びの欲動が集まると、文化になるんだ…。と感じ入ってしまいました。

で、田中さんがFab的な活動の一つの課題としてあげていたのが、日本の「製造物責任法(Product reliability)」。メーカーが製造した物は、解体をしてはいけない、という法律があることでした。

実際、インドネシアのFabLabで作られていた、「寝たきりのおばあちゃんに寝返りをさせるためのベッド」などは、日本の壊れた洗濯機から抜き取られた部品が多く使われていて、日本の製品はそういう部品の宝庫だそうです。そういう行為を、田中さんは「ハック」と呼んでいました。

PL法のロジックは、製品の解体の過程で人が怪我をしたり、万が一人命を落としたりした場合、メーカーが責任を取れないにも関わらず、メーカーのせいにされても困るから、ということ。

このことに対して田中さんの提案は、メーカーとユーザーというコミュニティの中で、責任を相互に承認し、解体したり改造したりする「自由」の領域を確保する、のがよいのでは?と言うことでした。

たしかに、子どもの怪我は、常にそこで遊ばせた親の責任でもあり、子どもの責任でもある。子どもと親とが相互に責任を承認しあっていれば、問題はない。まぁ子どもの問題の場合は、間に学校が入ってきて教師の責任を親が問い詰める、ということはよくある。だから難しいのだけど。

そう、ここでもう一度面白いなぁと思ったのは、「遊び」から「文化」へと発展していったものに対して、「制度(法)」が書き換えを迫られる、ということ。生活をよりよくしたい、という欲動が集まって文化が生まれ、活動が広がる。それを制度が抑圧するか、放ったらかしにするか、あるいは整理するか。

「遊び」から「文化」が生まれ、それに突き上げられるようで「制度」が書き変わっていく。抑えきれない楽しさや面白さへの欲求が躍動し、社会の空気はおろか、制度まで書き換えていく。これがムーブメントってやつか。

そしてこの草の根的な活動の繁殖が社会を変えていく構造は、最近の傾向でもある。人びとの欲求は集積し、ある種の文化の様相を成す。ここで考えたいのは、「制度」の応答力を高めていくことです。「行政はいろいろうるさいからだからもう民間で自由にやればよくね」ということでは、ヤバイ。

何がヤバイかというと、行政が嫉妬してそういう自由を刈り取りに来るから。そういうムーブメントの面白さを行政がよりよく理解し、よりよい市民社会のために応答し、制度を守るのではなく書き換えていく力こそ、この変化の時代に問われていると思いました。

次回、明後日の講演がたのしみです。



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