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2013/05/14

諦められない面白いこと

今日は、『Y時のはなし』のDVDの編集をお願いしている鈴木佐衣子さんとミーティング。時間はかかっているけれど、少しずつ少しずつ、形になっています。

昨日は、「アートコミュニティの形成 廃棄/モノづくり/コミュニティ」のレクチャーにいってきて、ナカダイの中台澄之さん、FabLabの田中浩也さんの話を聞いてきて、知的興奮にあふれたのち、こどもまつり終了後の三原台児童館の打ち上げにおじゃましてきました。

レクチャーの知的興奮のことはまた後日書くとして、なんで三原台の打ち上げに混ぜてもらったのかというと、お世話になっているカバちゃんと話したかったからで。カバちゃんは、ぼくが初めて東大泉児童館にいったときに担当職員だった方で、あと3年で還暦を迎える超ベテラン職員。その彼に、最近の心境の変化を報告しなきゃ、と思って。

館長から、先日の館長会でのプレゼンには「横文字」が多くて、カッコつけるな、と注意を受けました。それに付け加えてカバちゃんからは、「臼井くんの言葉を、児童館の言葉に翻訳しないと、伝わらないしもったいない」と。ぬあーーーーたしかにカッコつけてたっていうか、なんかもうまとまらない方向性をとりあえずつくろった借り物の言葉になってたかも…!と思って、ぬあああーーーー!と内心思いながら。

それでも、なかなかどうして諦められないことがある。から、いまこの活動をしてる。それはなにかというと、ぼくは子どもの遊びの風景がつまらなくなってしまうことが、たまらなく哀しい。

子どもだけで遊べる場所が少なくなって、大人のサポートが必要だから、公共がその役割を担おうじゃないか!と言って40年ぐらいまえにたくさんつくられたのが児童館。大人が率先して面白い世界に子どもを誘う、まるで異界の門だった児童館に対して、幼心にぼくはそのトキメキを憶えている。

しかしまぁ世間の目は優しくなくて、個人情報、アレルギー、トラブル、匿名のクレームなどなど、楽しいことしようっていう気持ちを萎えさせる波状攻撃は、ソフトに、しかし確実に、チクチクと、職員たちのやる気をそぎ落とし、いろんなことを「できない」構造へと取り囲んでいった。

でも、ぼくは、ナメんなって思われるかもしれないけど、職員と、子どもと、保護者と、地域の住民とが「そういうことやったら面白いかもね」という予感を共有していって、もし何か起きたときは責任を共有しようと相互に承認し合いながら、モクモクと面白い出来事が沸き上がって弾けて散らばっていく様を見たい。どうしてもそれを諦められない。若いねとか言われても!知らんわ!確かに若いけどもう26だからそこまで若くもないわ!

大人が面白いことを諦めて、子どもがその姿をみて、あーあと思いながら、世界の広がりはゲームの中だけで感じられる。全然夢とか希望とかなくね?

別に夢や希望をもってみんなで頑張ろう!みたいな気持ちはない、っていうか一つの理想や夢をみんなで共有する時代は完全に終わって、それぞれ見てる夢が違う時代になってるので、みんなで頑張るって行っても方向性バラバラで、まとまったとしても一時的じゃんそれは。でも、一時的にでもぐわっと盛り上がる瞬間をやっぱり美しいと思ってしまうし、その盛り上がりが冷めた夢の跡には、次の予兆がどこかでもう始まってるし。

とにかく「面白さ」というのは、予想を超えたことがおきたときに生まれるもので、はっとする驚きの中にこそある。しかしまぁ悪い方に予想を超えると怪我とか事故とかトラブルとかになっちゃうんだけど、「こんな面白いものに出会えると思ってなかった!」という予想を超えていく躍動感が、子どものいる環境にあってほしいものです。

もうもはや「遊びがつまんなくなってなんちゃら」とか言ってる場合じゃなくて、考えるべきは「文化」のこと。それは狭義の映画やら演劇やら音楽やらのことではなくて、人との関わり方や、働き方や、生き方のこと。40年前にできた社会システムは老朽化してるんだから、それにしたがって生きてたらしんどくなるのは必須。でも法律とか制度とかは簡単には塗り変わらない。でも空気は変わっていく。湧き上がる欲動というか、民意というか、人びとのあんなことやこんなことをしたいという気持ちがつくる文化のほうが健全なわけで、法律とか制度はそれを抑止するべきものではない。そのエネルギーによい流れを与えるもんだろう。

児童館というのは、もろもろの制度と、子どもたちの遊びの欲動と、ちょうどその狭間にいる。制度の側に立って子どもを規制するか、子どもの側に立って制度を批判するか、そのどっちでもある。だから面白いし、そのへんてこなポテンシャルを、諦められない。

はーなんか熱くなって書いてしまいました。ちゃんちゃん。







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