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2015/06/15

当たり前を疑う、傷を伴う

「当たり前を疑うことが大事」みたいなことは、社会学とかコミュニティアートとかワークショップとか、人や社会と関わるいろんな場面で言われてるけど、この言葉ってなんか疑わしいというか、誤用されてるよなと2年くらい前から思っている。





「当たり前を疑う」というのは多分正しくは、自分が当たり前だと思っていることに対して、なぜそれが当たり前になったのか、他の方法はあるかを問いかける、ということだ。内省や自己批判を含むことだと思う。

しかし、いろんなところで耳にするこの言葉の多くは、他者が当たり前だと思っていることを見つけて「こんなことに囚われているんだね」と、ともすれば小馬鹿にしたような感じで使われることのほうが多い。ここに、「当たり前を疑う」ということの誤用がある気がしてならない。人のふり見て我がふり直すという態度がなく、人のふり見てあざ笑うような、そんな感じの人がこの「当たり前を疑う」ということを言っていて、ゾワッとした。(しかもその人は「アーティスト」と名乗っている。ワークショップは自己表現の方法ではなく相互作用の場であり、他者をコントロールするために使う手法ではないとぼくは思う)。

何はともあれ、「当たり前を疑うことが大事」みたいに思っているなら、他者の当たり前を見る一方で自分自身のふるまいをよく観察し、自分自身の「当たり前」を疑い、驚き、ときに落ち込んで、変化していくべきなんだと思う。社会学者も、コミュニティーアートに関わる人も、ワークショップを作る人もみんな、実践者が変容していくプロセスにしか誠実さはないし、これ、超大変なことなんだなと思う。

疑いは傷をともなうし、他者への疑いは他者を傷つけ、同時に自ら傷つく位置に、踏み込まなければなるまい。その互いの傷の回復の中にしか学びなんてないんだろうと思う。

ぼくの恩師が「わかることはかわること」と言っていて、当たり前を疑うことからなにか発見があったり気づきがあったりしたら、そのことについて熟慮しないと、自分の行動が何か変わったりしないんだろうな。あるいは無意識にめちゃめちゃ影響受けて変わっちゃうか。

でも、いつだって人が何かを学ぶって面白いし、傷をともなうからキツイし、だからこそ愛おしくもある。

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