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2015/06/19

痛み、身体の違い、時代のムード

昨日は、午前中は練馬のママ友たちとデニーズでお茶をしながら、いろんな子育て事情の話や、彼女たちの活動のことをいろいろ聞いて、地域コミュニティの面倒さや家族を営んでいくことの日々いろんな闘いがあることを聞いてきた。1時間半だったけど、とにかく面白くてゲラゲラ笑った。



そして午後は高野萌さんの展示を見に行った。一緒に仕事をしていたころよりも格段に自分のやりたいことにむかっている感じが研ぎ澄まされていて、そのなかでつくられた作品たちは事物の魂を刺すような迫力があった。かっこよかった。そして息子のうな君にも初めて少しだけ遊んだ。お母さんがつくった日傘を遊び道具にして笑う姿に、なんだか澄んだものが肺のあたりに広がっていくのを感じた。

Coci la elle 本店企画展示『よくみる夢が日傘にくっついている』展 6月24日まで。おすすめです。



とにかく母である女性たちはみんな別々の人生を歩んでいるけど、かっこよくて美しかった。ぼくにはおよそ彼女たちの母としてのリアリティを自分のものとして感じることはできないし、ああなりたいって憧れることも、自分は男だから違うって切り離すこともできないし、わからないからただ想像することしかできない。いや、想像することさえまともにできていないだろうなぁと思う。

母性本能とか、男性の闘争的な本能とか、そういうのあんまり信じてないけど、ただカラダの仕組みが違うというのは、信じるとか信じないとかじゃなくて事実だ。男性は自分のカラダの中に他者の命と身体を宿すことはできないし、その人を生み出すことの痛みもない。女性はその準備をずっとしていて日々痛みとか体調の内側からの変化と闘いながら暮らしている。(風邪だの飲み過ぎだのでグダグダ言ってる男子とは全く違う)だから女性はか弱いから守らなきゃだめだ、なんていい加減な嘘で、むしろか弱いのは男子のほうだよなぁと思う。

「経済」がぐんぐん「成長」していた時代には、男子も元気で、おれについてこいスタイルでなんとかなったけど、先行き不透明で大きな企業でもいつ潰れるかわからなくて、どうしたらいいかわかんない社会で、時代はなんとなく争いの雰囲気に向かっている日本で、男子のナイーヴさは内にこもって震えはじめているような感じがある。おれについてこいってなんか勢いとしてに言えない、っていうのが男子のリアリティで、つまりそういう男子の姿勢というのはその人個人の気持ちというより時代のムードだったんだろう。

こんな時代に、男子には「自分には痛みがない、あるいは鈍い」ということの無意識的なコンプレックスさえ出てきているはずで、「生理痛・陣痛コンプレックス」みたいなのがある気がしている。さてじゃあそのコンプレックスをかかえてどうやって生きていくのか、というかどんなのがつぎの時代のムードなのか、みたいな話はまた今後。







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