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2015/06/23

戯れを、いたずらに、終わらせるなよ

ワークショップを日々やっていて思うのは、「遊び」を終わらせるのはいつも大人で、「一回」とか「一曲」とか「ひとコマ」とか単位を与えて、その時間に終わるように仕向ける他者のおかげで、子どもたちは遊びを止めなければいけない。



社会はそういう単位を組み合わせた「時間割」でできているし、その時間割を守ろうとする姿勢を内面化することで子どもは大人になっていくんだろう。でもそれって、つまんなくなるっていう意味でもあるような気がする。

「パーティーを23時でお開きにするのかい?」っていう話と一緒で、もっともっと!!もっと!!もっと遊ばせろ!!!!!!と吠え出すような突き抜け感のある熱中っていうのがきっとあるんだと思う。そしてそれは充分な「戯れ」のなかから織りなされていく気がする。なんかそういう時間が泣く泣く終わっていく感じにいつも出会いたい。

ああでもないこうでもないと試行錯誤して、なんだよそれとゲラゲラ笑い合う親密な他者がいて、そういう未完成のものが遊び磨かれていくその際中に気付かずして芽生えるグルーヴみたいなのって、思春期に経験ある人たくさんいると思う。

そういうグルーヴをもっともっと狂わして狂わして、ギリギリで制御して人に見られるようにするのが演出とか振付とかで、それを人に体験してもらってどこいくかわかんないけど入り口だけ開く、っていうのがワークショップだとすると、やっぱ戯れを簡単にお開けきにしないでくれよ!って思うよなそれは子どもならさ。

終わらせたり片付けたりマナーを守ったりするのが大人なんだけど、創造の場なら可能な限り狂っててほしいというか、狂気と制御のバランスをどう整えるのか。人々の感情の抑揚を扱う演出家とか振付家とかワークショップをつくる人とか、手腕と倫理が問われる仕事だよなぁと。

*関連するのはこの記事
カーテン、役割、見立ての遊び
ワークショップのドラマトゥルギー その1


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