劇団「ファイファイ」の野上絹代さんが、新しく「三月企画」というプロジェクトをはじめた。その旗揚げ公演である『GIFTED』を観てきた。http://www.kinuyo-marchproject.info/
絹代さんとは2012年にアーティスト・イン・児童館でファイファイを呼んで『Y時のはなし』の公演をやってもらった時からの付き合いがあって、2014年には水戸芸術館「拡張するファッション」やアーツ前橋「服の記憶」といった展覧会でFORM ON WORDSのファッションショーの構成・振り付けをしてもらった。いまのココイクの仕事でもお世話になった。尊敬する姉のような人だと思っている。今回の公演『GIFTED』では、ファッションショーの音楽を作ってもらったmother terecoが音楽を担当していたし、彼らの仕事と「ビッグバン」っぷりが見事だった。
演劇は普段なかなか見に行けないけど、見るのが好きだ。目の前の生身の人間が、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりして次々とイリュージョンさせて別の世界を立ち上げちゃうんだけど、触れようと思ったら触れられる身体や声はやっぱり目の前にある。目の前で巻き起こる言葉や声や歌や音がグルーヴして、観客のきもちがごちゃ混ぜになっていく。そういう感じの演劇を見るのが好きだ。
『GIFTED』は「時間はちょっとしたことで操れちゃう」という話から始まり、序盤では、絹代さん自身や役者の方々のプライベートな経験なのかもなと思われることがポツリポツリと語られる。小さな男の子を育てていて、同時に親の介護に週に一回行っていること。3人の子どもは家を出ていて、夫は7年前に先立ったこと。
子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。
子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。
本人と思われる語りからはじまって、保育士、子ども、母親、ママ友、おばあさん、介護士と役者はめまぐるしく役を入れ替えて演じていく。はじめは役を着ていない個人として語り、子どもの役をやり、親の役をやり、高齢者の役をやり、子どもの役の中で魚や動物の役をやり、その切り替わりのドタバタ感が可笑しくて可愛い。とくに子どもと母親のやり取りは、役者自身の経験の再現だろうなーと感じるし、それをプロの役者がやるものだから描写が細かくて楽しい。
お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。
お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。
クライマックス。子どもたちの卒園式のお遊戯会の演目を決めきれずにいた保育園の先生が、げっそりした顔で「浦島太郎はやらず、宇宙のはじまり、ビッグバンをやります」と言いはじめる。「今あるものが全部ないのがビッグバン以前です。そのために、みんなのことをなくしてみせます!」みたいなことを言って、子どものお絵かきのような絵を使ってタイムスリップが描かれ、戦争から江戸時代、原始時代から恐竜の時代へと遡っていく。その中で漂う女の子が、声や、音の裂け目を発見して、ないものからあるものが見つけられていく。
ありったけのエネルギーを使い、絶妙に微妙な手作り小道具を使い、これまた絶妙にダサいダンスがあり(これが最高すぎた)、大人が全力で大声を張り上げながらビッグバンをお遊戯していて、それがはじけた後、それはみんなそれぞれに事情や生活をもった個人なんだってところに還っていく。
過去の経験や記憶、お遊戯が媒介になって、嘘と本当とがごちゃ混ぜになって、今この時代を生きてるっていう事実が、今目の前で演劇になっているんだなぁと感じた。
そうそう、『GIFTED』を見て感じたのは、演者が観客に向けてなにかを物語る手法として演劇があるというよりは、演者も観客も含めてそこに集う人々の経験をごちゃ混ぜにして今ある事実とか生を肯定するものとして演劇がある。みたいなことだった。こういうの、なんていう概念なんだろう。
こんなふうに役者の個人的な経験が反映されまくるものって、好みは分かれるかもしれないけれど、この作品の世界への肯定感がぼくは大好きだったしずっと笑ってたし、ラストのラストでみんながある言葉を慟哭する場面は泣いた。
そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!
そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!
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