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2016/11/23

聴こえの体験、音の密林 ー Mother Tereco ELECTRONIC & ACOUSTIC SESSION

1119() 横浜市民ギャラリーあざみ野にて、電子音楽バンドMother Terecoと、詩人の小林大吾さん、ギタリストのDustin Wongさんのライブセッション「Mother Tereco ELECTRONIC & ACOUSTIC SESSION」が開催された。音楽を聴きにいったつもりが、音について耳を覚まされる経験になった。



Mother Terecoについては以前もこの記事で書いている。昨年から活動を本格化した2人組の電子音楽のユニット。ことあるごとにお世話になっている。これまでは原宿のVacantや青山の月見ル君思フでライブを聞いてきたけれど、今回のはそれらと並列に考えるのは難しい体験だった。

ここで感じたのは「いろんな場所からいろんな音が聴こえる~!!!!!!!」ということだった。音楽のライブに行く、というと大体がメロディを聴いたり歌詞を聴いたりしてノレる、感動する~みたいな、感情を煽らにいくことが多いのだと思うけれど、そういうのとは違った。



会場に入ってまずビビったのは、立方体だったり三角形にたくさん目みたいのが付いていたり、火を吹きそうな五重の塔だったり、スピーカーと思しきものが会場に散りばめられていることだった。円形に並べられた観客席のどこに座ったらいいかスピーカーや機材の配置の意図が読めないままとりあえずPA卓の近くを選んだ。

人が円形に並ぶと、儀礼的な何かを感じる。始まる前はドキドキして、とかく緊張感を煽る空間になっていた。



セッションは大きく3つの構成に分かれていた。

第1部はMother Tereco 2人のセッションが始まる。最初に鳴った電子音に、別の電子音が重なる。が、それはどうやら別々の場所から聴こえる。電子音の音源の位置を定位するのに目はあまり役に立たないので、耳を澄まして音の位置を定位しようとする。どうやら2人の近くにある立方体のスピーカーから聞こえているっぽい、ということぐらいまで憶測がたったところで今度は背後から重低音がミシミシと空間を震わせ、天井がしなる音を立てる。重低音は内臓まで振るわす。

そこにさらに別の音がどこかから聞こえてきて、もうどこに何の音があるのか追いきれなくなるが、耳はどうやったって音源の位置を定位しようとするから耳がいろんなところにピントを合わせようとしてめまぐるしい。ああ、音ってこんなにも空間だったのか~!ということを、まざまざと感じさせる演出とそれを実現させる演奏と機材で、始まったときはもう今回はこれは音楽体験というよりは空間体験なんだ、と思うことにした。

日常の「聴こえ」の経験は、幾つかの音が混じった状態で1つのシーンであると認識している。たとえば電車の中で、電車の車輪が線路をこする音や鉄製の車両が震えてしなる音、車内放送の声、人の会話の声など、様々な音が聞こえる。こういった音の聴こえによってぼくたちはシーンを記憶するし、想起する。今回のコンサートは、空間の中に散らばって聴こえる音と音の間につながり(リズム、コード、メロディ)が隠れていて、それを発見する耳の遊びで、音を楽しむというより「聴こえ」を楽しむようになっていった。

2部は、詩人の小林大吾さんとのセッション。パーカーにジーンズにキャップ姿の高い背に長い腕の小林大吾さんが「コップ」「一杯の」「Beer」の3つの言葉からわーっと始める言葉の羅列に乗せられつつ翻弄されつつ、何と滑舌がいいのだろう!と驚きながら聞き入る。

日常の中の言葉は、単語があって、熟語があって、文があって文章がある。word,idiom,sentense,text….そうやって文章の意味を受け取る。「コップ、一杯のビア」単語は聴こえるしイディオムをなしているのもわかるのだが、早すぎて言葉の連なりの中で何が起きているのかが把握できないまま、断片的な意味だけが耳に残り、電子音のドローンとともに通り過ぎていく。「そいつは言ったんだ」みたいな呼びかけるような詩人の仕草もまた、断片的な意味として目に残る。脈絡をもっている(ような気がする)断片的な言葉と仕草の情報過多に、日々ふれている(と思っている)言葉の意味から、聴取者であるぼくの身体が遊離していくのを感じる。その浮遊感を、Mother Terecoの音が支える。

3部は、ギタリストのDustin Wongさんとのセッション。Mother Terecoが操る電子楽器は、電気信号によって音がつくられている。けれどギターは弦の振るえによって音をつくりだす。赤と黄色の靴下を履いた足で、エフェクターを踏み、椅子に座ってかがんだ状態でツマミをひねってギターの音にエフェクトをかけていく。ギターの弦の振るえがエフェクトされて音の形が変わっていったり、残響になっていったりする。

Mother Terecoが作り出す音楽の特徴のひとつに「情報過多」というのがあると思う。2人が奏でる音数とその変形パターンが押し寄せてくる感じが気持ちいい、というのが2人の楽曲の特徴なのかな~なんて思っていた。今回はさらにスピーカーの位置と響き方という情報が加わるので、ここちいい情報過多の渦に飲まれながら自分の知覚も次第に加速していくのを感じていた。しかし、あとでMother Terecoの難波くんに聞いたら、今回はかなり音の数を制限したとのこと。1つ1つを現場でシンセサイザーで作り、それで鳴らしていたのだとか。それがDusting Wongさんのギターの響きが加わり、細部まで書き込まれた密林の風景画の中にいるような気持ちにさせられた。



とにかく、いろんな場所からいろんな音が聞こえて楽しくて、座っているよりも歩き回りたかったし、音の場所を探したかったし、音を出している人の仕組みをのぞき込みたいしなんなら手を加えて音いじりをしてみたくなった。鳴らしていいものならぼくも音を鳴らしてみて、この密林の中にどう搔き消えるのか、残響するのか、試してみたい気持ちにもなった。

コンサートの後は、遺跡を眺めるように観客の人たちが電子楽器やスピーカーの写真を撮っていた。たしかに展示品としてもかっこいい物と配置と照明でだった。


ほかにも、こんな面白いライブがなんでこんなところで?とか、キュレーションの意図は?とか、気になったことはたくさんある。ひとまずは、こんな風に音についてたくさんのことを教えてくれたこのライブに感謝するし、企画の小原君のステートメントが読みたい。

そして、実際のライブ映像が14分にわたって贅沢に公開されている!ので、追加!


2016/04/26

音に触れる、音をかたどる ーMother Terecoスタジオにて

今日は音楽ユニット「Mother Tereco」のスタジオに遊びに、本厚木に行ってきた。Mother Terecoは先日の絹代さんの舞台『GIFTED』でも音楽を担当していた電子音楽のユニットで、メンバーの難波くん、佐藤くんの2人はFORM ON WORDSが水戸でショーをやったときからお世話になっている尊敬するクリエイターであり、友人である。


車で颯爽とあらわれた2人は、天気がいいからってことで厚木の面白スポット「宮ヶ瀬ダム」に連れて行ってくれた。スパイ映画のロケーションで使われそうなインダストリアルな感じと、のどかな風景とがあいまって最高だったので、ダムを上からも下からも見た。


スタジオでは、Mother Terecoのシンボル的存在でもある「モジュラーシンセサイザー」の仕組みを見せてもらった。シンセサイザーって、キーボードにいろんなツマミがついてるやつ、ぐらいの認識しかなかったのだけど、そうじゃないだね。音の波形を変えることで、音を形作ることができて、それでメロディも作れるし、波形の変化だけで展開をつくることもできたりする。ぼくが野暮な説明をするよりわかりやすいサイトがあったのでこれ見てみてください。

最近ぼくが「触感」をテーマにしたワークショップを作っているっていうのもあって、音の波形を操作することで「プチプチ」とか「ふわーん」とか「ジュルジュル」とか、柔らかさや硬さ、液体感や鋭利な感じなど、いろんな音の質感をつくることができる、というのは単純だけど驚きがあった。電子音でメロディやビートをつくってシンセサイザーで音の質感を操作して…みたいなのが電子音楽だ、というのは簡素すぎる説明かもしれないけれど、Mother Terecoはここの波形の操作をより高解像度でいじっていて、手の巧緻性が音の質感の変化にダイレクトに影響するような音作りをしているし、そこにバイオリンなどの生楽器の音を組み込んでいて、音の幅を広げた演奏をしている。藤田陽介さんや、マイカ・ルブテさんとコラボレーションをしたりとか、活躍も目覚ましい。


電子音楽の歴史の話も面白かったし、そこから派生したアフリカンデスメタルとかKonono no.1とかの話も面白かったし、楽しかったのはもちろんなんだけど、何より「電子音を作ること」を自分でももう少しやってみたい、と思った。音楽は作れなくても、音を作って遊ぶことならなんかできそう!という感じを覚えた。まあ何かに影響されるとすぐそう思いがちなんだが、どう手を伸ばして、実際に触れられるものを身近に置いておくかなんだわな。なんか身近に手に入れられる道具ないかな。

難波くん行きつけの「酔笑苑」の炭火焼はどれも最高だったし、牛タン赤身刺しは最高のローフードだった。

ぼくは、音楽とファッションは苦手な分野だと思っていた、というのはどっかに書いたことがある気がする。映画とか小説は起きていることの順番をたどればその構成がわかるし、作り手の動機もなんとなく感じられるけど、音楽とかファッションは自分ではそれがわかんなくて、自分がわかんないっていうことが恥ずかしくて「なんかいけすかねえ!」みたいに思うことで自己保身してた。でも、縁があってこうしてクリエイターと関わってみて、自分もワークショップという手段で自分なりの動機を持って構成をしていく仕事を通して、作り手と歩み寄ることができて、はじめて音楽やファッションやその他の分野の面白さがわかってきた気がする。自分の家にミシンとシーケンサーが欲しい。

*関連する記事はこれ

2016/03/28

劇中劇中劇、お遊戯、事実 ー三月企画『GIFTED』を観た

劇団「ファイファイ」の野上絹代さんが、新しく「三月企画」というプロジェクトをはじめた。その旗揚げ公演である『GIFTED』を観てきた。http://www.kinuyo-marchproject.info/



絹代さんとは2012年にアーティスト・イン・児童館でファイファイを呼んで『Y時のはなし』の公演をやってもらった時からの付き合いがあって、2014年には水戸芸術館「拡張するファッション」やアーツ前橋「服の記憶」といった展覧会でFORM ON WORDSのファッションショーの構成・振り付けをしてもらった。いまのココイクの仕事でもお世話になった。尊敬する姉のような人だと思っている。今回の公演『GIFTED』では、ファッションショーの音楽を作ってもらったmother terecoが音楽を担当していたし、彼らの仕事と「ビッグバン」っぷりが見事だった。

演劇は普段なかなか見に行けないけど、見るのが好きだ。目の前の生身の人間が、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりして次々とイリュージョンさせて別の世界を立ち上げちゃうんだけど、触れようと思ったら触れられる身体や声はやっぱり目の前にある。目の前で巻き起こる言葉や声や歌や音がグルーヴして、観客のきもちがごちゃ混ぜになっていく。そういう感じの演劇を見るのが好きだ。

『GIFTED』は「時間はちょっとしたことで操れちゃう」という話から始まり、序盤では、絹代さん自身や役者の方々のプライベートな経験なのかもなと思われることがポツリポツリと語られる。小さな男の子を育てていて、同時に親の介護に週に一回行っていること。3人の子どもは家を出ていて、夫は7年前に先立ったこと。

子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。

本人と思われる語りからはじまって、保育士、子ども、母親、ママ友、おばあさん、介護士と役者はめまぐるしく役を入れ替えて演じていく。はじめは役を着ていない個人として語り、子どもの役をやり、親の役をやり、高齢者の役をやり、子どもの役の中で魚や動物の役をやり、その切り替わりのドタバタ感が可笑しくて可愛い。とくに子どもと母親のやり取りは、役者自身の経験の再現だろうなーと感じるし、それをプロの役者がやるものだから描写が細かくて楽しい。

お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。

クライマックス。子どもたちの卒園式のお遊戯会の演目を決めきれずにいた保育園の先生が、げっそりした顔で「浦島太郎はやらず、宇宙のはじまり、ビッグバンをやります」と言いはじめる。「今あるものが全部ないのがビッグバン以前です。そのために、みんなのことをなくしてみせます!」みたいなことを言って、子どものお絵かきのような絵を使ってタイムスリップが描かれ、戦争から江戸時代、原始時代から恐竜の時代へと遡っていく。その中で漂う女の子が、声や、音の裂け目を発見して、ないものからあるものが見つけられていく。

ありったけのエネルギーを使い、絶妙に微妙な手作り小道具を使い、これまた絶妙にダサいダンスがあり(これが最高すぎた)、大人が全力で大声を張り上げながらビッグバンをお遊戯していて、それがはじけた後、それはみんなそれぞれに事情や生活をもった個人なんだってところに還っていく。

過去の経験や記憶、お遊戯が媒介になって、嘘と本当とがごちゃ混ぜになって、今この時代を生きてるっていう事実が、今目の前で演劇になっているんだなぁと感じた。

そうそう、『GIFTED』を見て感じたのは、演者が観客に向けてなにかを物語る手法として演劇があるというよりは、演者も観客も含めてそこに集う人々の経験をごちゃ混ぜにして今ある事実とか生を肯定するものとして演劇がある。みたいなことだった。こういうの、なんていう概念なんだろう。

こんなふうに役者の個人的な経験が反映されまくるものって、好みは分かれるかもしれないけれど、この作品の世界への肯定感がぼくは大好きだったしずっと笑ってたし、ラストのラストでみんながある言葉を慟哭する場面は泣いた。

そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!

*関連する記事はこれ




2014/12/04

民謡、淡く深いギター、身体の変化

今日、vinylsoyuzの清宮凌一さんにお誘いいただいて、木津茂里さんという民謡歌手・太鼓奏者のライヴに行ってきた。YouTubeで見たことがあるぐらいだったのだけど、ライヴは想像を超えてすばらしくて、ほんとによかった。 木津さんの声の響きはもちろんだし、津軽三味線も三線も最高なんだけど、それに合わせている青柳拓次さんのギターの音がなによりよかった。ギターが鳴るだけで、こんなにも淡く深く響くんだ・・・。聞き慣れた『炭坑節』に青柳さんのギターの音が重なると、節が前景化して、その背景に淡く深みのあるフォーキーな響きが流れる。節とフォークと、2つ(よりもっと多く)の情景が重なってノスタルジックな未視感を味わう。 音楽もアートも、いまここでいろんなものごとが重なってるんだ!そしてそれがおれのあたまんなかでぐるぐるまわって穴を開けようとしてるんだ!という興奮作用みたいなものがあって、それはやっぱり人の心をアゲる。そして、日常の感覚と違うその興奮は、おれはこんなにも別の感覚で生きることができるんだ、というオルタナティヴを提示する。 「音楽やアートが日常を豊かにする」というのは、いろんな感覚、いろんな状態に、自分の身体が変わるということを学びうる手立てだからなのかもしれないと思う。

2014/03/30

人力、ミニマル、グルーヴ

音楽は別に詳しくはないし、そんなCDやレコード買いあさったり、クラブに入り浸ったりするようなこともしないんだけど、一個だけ好きで好きで仕方ないジャンルがあるとするとそれは「人力ミニマルテクノ」です。

2012年3月31日に、ドイツのミニマル・テクノユニット「Brandt Brauer Frick」という人たちが来日してたときに、なんとなくかっこよさそーと思ってYouTube見たらおや?これは?と思ってライブに行ったらめっちゃ踊らされてびっくりした。



ミニマル・ミュージックの代表者の一人にテリー・ライリーという人がいるらしくて、その人の「in C」という曲を蓮沼執太さんが演奏していたので、原曲も聞いてみたらすごくよくて、あぁこういうのがミニマルなんだ〜と思っていた矢先のコレだったので、こんなに踊れるミニマルあるの〜!!!!と驚いた。



人力ミニマルテクノはジャンルとして確立されてるわけじゃない。ただ、人の力で繰り返されたり、気付かないうちに変容していったり、予期せぬ音が入っていてそれが新しいグルーヴになっていったりする感じが気持ちいい。たとえば日本のにせんねんもんだいも、おなじ感覚で好きなわけです。



で、更に調べてみるとアフリカにもあったみたいですね!人力ミニマルテクノが。無表情でぽんぽこやってる感じがたまらないし、ちゃんとエレクトリックなんだよな〜。親指ピアノっていうんですか。
(00:02:07あたりでおもわずツッコミを入れるはず。)



とまぁこんなかんじで、なんとなく好きな音楽映像をまとめたくてブログに埋め込んだッて感じです。一見バラバラで予定されている和音とは別のかみあわせで生まれちゃうグルーヴ、みたいなのが最高にアガる。不協和音とかいって和音って誰かに決められたもんだし、おもしれー!とかあーこんなんしちゃおかなーとかそういうのが重なってくればヘンチクリンなグルーヴは生まれるのだということを見せてくれている。

同じ文脈で紹介していいかわからないけれど、Open Reel Ensembleもまた、人力で、時にはその場で録音/再生/編集(回転したり止めたり)して演奏してしまう、超クールなグループ。


こうやって並べてみると、こういった質感のグルーヴを出すための身体性って、何なんだろうと考えてしまう。こうしたらおもろいだろ、とか、こんなんしちゃおっかなー、とか、ここにあえてこう!みたいなやりとりが生む集合知、これは楽しそうだなぁと思う。ぼくもぜひ嗜みたい。




2012/04/05

音楽、バラバラ、グルーヴ

3月31日に、UNITに「Brandt Brauer Frick」というユニットのライブに行った。ミニマル・ミュージックの系譜なんだけど、ジャズっぽい音も、聴いたことないパーカッションのリズムも、入ってくる音がかっこよくその重なりだけでグルーヴをつくりだすからホントすごい。そしてライブはめちゃくちゃ楽しい。

《全児童自動館》の制作・上映の過程と、Terry Rileyの「In-C」という曲の構造が本当によく似ている、と感じている。1つの短調な連音から始まり、別の連音が合わさっていく。途中から現われたり、消えたり、介入してきたりして、グルーヴが現われ、方々に広がっていく。



「蓮沼執太フィル」が3月20日の「MUSIC TODAY」で演奏していたのを聞いて知った曲なんだけど、聞いていて、この感覚知ってるぞ、と思っていた。それは児童館に流れる、中高生の複数の「気分」が、うねりをあげて当日に向かっていたあの過程だなぁと。

ひとつのコミュニティの作り方として、リーダーシップを誰かが発揮して一つの方向に導くのではなく、バラバラな意志が収束したり、拡散したりしながら、それぞれが調律していく方法がある気がしている。その豊かな「知性」をどうやって開こうかと思案している。

中村児童館の高校生が今日、「ちっちゃい子も、小学生も、中学生も高校生もいて、大人もいて、年齢も学校もバラバラの人が集まって一つの空間が成り立っててスゴイ」と言っていた。ぼくもこれスゴイと思う。今年のプロジェクトは、近代が生み出したいくつもの「分断」を乗り越えて、大きなグルーヴをつくっていく。それは児童館という壁を超えて広がるうねりであってほしいと願う。その方法論として、「音楽」はとても近いと思っているのです。






2011/03/19

2011/03/18 Lonely Girl/Sexual Healing





Marvin Geyeの曲が元ネタになって、佐東由梨、ECD、加藤ミリヤにつながってる。