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2010/10/12

10/10 六甲ミーツ・アート(後編)



そんな中で、「OFF COURSE HILLS」は異彩を放っていた。レジャー施設の中で、TDLやUSJのアトラクションのような見立てで、観客は何か面白いものがあるのかな、と迷いこんでいく。


その元レストランの中に「かつてある夫婦が経営していたレストランに、戦国時代から5人がタイムスリップしてきて・・・」というフィクションのストーリーが埋め込まれている。チャプタごとに物語が展開していくのか、と期待しながら歩いて行くと、どうでもいいしょうもうない話に期待を裏切られる。









チャプタごとの情景描写も、イスを積み上げて「山」や「馬」をつくっていたり(でもそれが川俣正やマルセル・デュシャンへのオマージュだったり)、ペープサートのアニメだったり、このあたりの"即席感"は彼らの特徴。ナデガタの作品を見ているといつも「くったくただな!」という感想を抱く。形がクタクタになっていて、原型は想像しないとわからないようになっているのだ。そのクタクタをどこまで見せて、どこまでカッチリ型にするか、そのバランスが彼らの作品の決め手のように思える。


今回、この作品は実は3重の層になっている。
①:「夫婦と戦国時代のサムライたちのドタバタ話」
②:「その伝説を追いかけたヒロシ(8歳)の話」
③:「ヒロシを追体験する観客の話」
・・・この入れ子構造が作品としての批評の対象になりそう。


でも実はこの構造はどのメディアにも埋め込まれている。例えば自伝やドキュメンタリのように「事実」を描写したものでさえ持っている構造だ。ある「事実」(①)を、描写・演出する誰か(②)がいて、それを読む私たち(③)が居る。だれもある事実をありのままに体験することはできず、②の色眼鏡を掛けて見なければそれは成立しない。


描写、演出され、追体験できるものはすべて、「事実」として捏造できちゃうのかもしれない。裏をかえせば、演出されたものの中に「事実」はどこにも存在しないのかも知れない。


とまぁ考えてみたけれど、ぼくが建物の中に居合わせたお客さんは、他の作品同様「ふぅん」という感じ。「学園祭みたいだな」「なんだかよくわかんない」「なんでこんなことしてんだろう?」「しょーもねー・・・」とつぶやきながら建物の中を歩くお客さん達。


美術作品に対して、こう斜に構える人たちばかりだけど、オーディエンスとのコミュニケーションは難しいなと。本筋となる物語(①)の構成がもっとしっかりしていて、限りなくホントっぽい話になっていれば、作品の批評性を彼らも受け取ることができたんじゃないかな。この作品の仕組みが分かってこそ楽しめるはずだし、アトラクションだと思って迷いこんでしまった人が、その仕組に気づいて「はっ」とする瞬間をもっと見たかった。

 


リテラシーのある人だけが「はっ」となる作品にあんまり面白さは感じ無い。誰もが「ガーン」と喰らうような作品がぼくは好きだ。




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