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2010/12/06

12/05 カメラに依って

今日は東京都写真美術館に「ラヴズ・ボディ ー生と性を巡る表現」展を見て、「松戸アートラインプロジェクト」へ。帰ってきてからはみそ鍋を食べて、卒論を進めている。

 ラ ヴ ズ ・ ボ デ ィ 

「ラヴズ・ボディ」展は、タイトルの語感がいいので、前から気になっていた。友人からの評判はそんなによくなかったけど、最終日に行けてよかった。素晴らしかった。身体をヌードやエロスの表現だけでなく、あらゆる政治的、法的、権威的な「視線」にさらされるモノとして捉え直す試みだった。それらの「視線」や関係性の集積を表現するのに写真というメディアの有用性を訴えている展示でもあった。あらゆるものに規制され、規定され、それでも愛し合っちゃう人間って何なんだろうね、とそんな事でも呟きたくなるような、そんな作品たち。


 松 戸 ア ー ト ラ イ ン プ ロ ジ ェ ク ト 

その後、珈琲を飲んでから松戸へ向かう。西尾さんや石幡さんが参加している「松戸アートラインプロジェクト」の会期中なのでした。細かい内容については割愛するが、こういうアートプロジェクトに行っていつも悲しい気持ちになるのはなぜなのだろう。みんな頑張っているのはわかるのだけど、何かが悲しい。

「地域系アートプロジェクト」とか言うよく分からないことばが使われているけど、それを言ってしまった瞬間に、美術の「毒」がすっかり抜けてしまう。美術って何?表現って何?という辛辣な問いかけはすでになく、美術いいでしょ、なんかこういう感じ。いいでしょ…となってしているように見える。行く宛のない創作物たちを見ると、悲しくなるのだ。単純に、足を運んだのに、ガツーンと頭を揺るがされるような、面白いものに出会えない悲しみでもある。(この「創作物の行く宛」については、今考えていることがあるので、また明日にでも。)

なんだか少し前まで、「アマチュアリズムで行けるぜ!」とか考えていたけど、もはや無理。情報デザインからドキュメントまで、プロの参与が必要だって。アマチュアでも誰でもアートはできます、なんて幻想。フィクション。ファンタジー。



しかし、しかし、このプロジェクトにアーティストとして参加している村上慧くんの作品は理屈ぬきに面白い。彼の「家」とそれを作った理由。力抜け過ぎてていい感じ。高校の後輩なのだけど、今後が楽しみ。


 み そ 鍋 

まぁそんな取り留めもないモヤモヤと一縷の期待を持って帰ってきて、でもどうしてもモヤモヤが晴れなくて池袋をうろうろしているときに、無印の大きな土鍋を見つけてしまった。以前から美味しい鍋を食べたくて土鍋を探していたので、思い切って買うことにした。3300円。マッカリに帰ってみそ鍋を仕込み、食べているうちにテンションは徐々に回復。


 カ メ ラ に 依 っ て 

ご飯を食べてから、明日の卒論に向けて作業。evernoteで作った昨日のフィールドノートを見ていて、ふと思ったことがある。



ぼくは児童館に居て、中高生達と関わっているけれど、そんなに「児童館マジで大好きです!!」というわけでもない。この間の音楽祭の時も、高校生のバンドや小学生のダンス教室の発表を見ていて、恥ずかしい気持ちになったり、いたたまれない気持ちになったりするほうが大きくて、現場に乗れずにいる。むしろ引いてる。「うわー」って感じで。何もしないでただその場所に居るとき、ぼくはそんな感じなのだ。

でも昨日、コンパクトカメラを手にビデオを撮っていて、その映像を家で見ながら気付いた。映像に写っている彼らは懸命で、でも滑稽で、ぼくはそれを愛おしいと思っている。「カメラで撮影をする」というアイデンティティを持って、カメラに依って彼らとの距離を測り、安定できる場所を模索するのだろうなぁ。カメラに依ってぼくは彼らと関わることができるわけだ。

さて、明日はそのあたりも告知含めて話そうかな。

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