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2011/10/05

「観察者」から「当事者」へ

山本さんのプロジェクトで現場を駆けまわっていたこの9月に、半年のロスタイムを経て大学を卒業した。単位の計算を怠り、数が足らずに卒業できず、多くの人に迷惑をかけた。お世話になった方々に、心より御礼を申し上げたい。

そんなしようもない失敗を経て終えた学生時代だが、ふりかえってみると、ぼくの中にある「観察者」のふるまいを再発見する。卒論も、自分が呼びかけてはじめた活動(アーティスト・イン・児童館Nadegata Instant Partyプロジェクト《Let's Research For Tomorrow》)のエピソードを記述・考察したものだ。「観察者」の立場は、客観的にものごとを見、新しい可能性をかたちにするための第一歩だと信じているが、この立場はときに、責任を逃れるための言い訳になりえてしまう。自分で呼びかけて活動を始めたぼくは、もとより当事者なのだということを改めて今考えている。ここにぼくは自戒として、この「観察者」という立場の危うさと卒業を機に思うところを書きたい。

「フィールドワーク」ということばが普及して以来、「観察者」は新しい価値をもたらす立場として評価された。それは今、「まちづくり」の活動では基本とされているところだ。ぼくと同世代の友人たちにもこの「観察者」に可能性を感じ、この立場(あるいは気分と言ってもいいかもしれない)に寄って立つ人が多い。ぼくもフィールドワークに魅了され、その勉強をしてきた。

危険だと思うのは、観察者という立場を安易に選ぶとき、無責任におもしろがっていていい立場になってしまう、ということだ。それは傍観になりかねない。そして、傍観はノイズであり、ときに迷惑や暴力になりかねない。

観察は批評であり、批評には責任が伴う。「観察者」はその場所に介入し、変化を加える当事者だ。「観察者」であろうとするならば、まずはじめに変化を与える主体であることを自覚するべきだ。そして、なにをよりよいと思い、その変化にどんな希望を見出しているのか、考えを持ったほうがいい。「わからない」と言っている場合ではない。わからないなりにその都度している決断があり、それを自分の決断として受け入れたほうがいい。

ぼくは「観察」を、可能性をかたちにする第一歩だと考える。そのあとには、とりあげるものを選び、どんなかたちをつくるのかを決断し、編集し、つくっていく作業が待っている。観察は始まりにすぎない。その意味では、ここまで「観察者」と言ってきた部分を「編集者」と言い換えたほうがいいような気もしてくる。


いずれにせよ、観察し、編集し、変化をつくる当事者として、卒業を機に身を引き締める思いでいる。そもそもこの文章は、林立騎さんにもらったコメントへのアンサーとして書き始めた。今年3月に「アーティスト・イン・児童館 コンセプトブック」の原稿へのコメントを求めたとき、林さんからコメントを寄せてもらった。「臼井くんの責任ある意志が書かれていない」というものだった。そこに反論の余地はなく、ぼくはそれに何も応答できていなかった。今期の山本高之さんのプロジェクトを通して、「責任ある主体」としての自分と子どもについての考えを巡らせるうちに、この文章を書きたくなった。


メモ:
・「観察」と「編集」について。
・「変化する部分」と「変化しない部分」について。







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