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2012/11/25

Y時制作日記(3)

今日は集中稽古でした。

光が丘なかよし児童館の子たちと、中村児童館の子たちの合同練習。ドッジボール大会のときみたいにディスり合うかと思ったけど、互いのパフォーマンスを認め合っていた。そして仲良くなっていった。

子どもたちと快快が1つのカンパニーになってY時のはなしを作り上げている。

放課後の、特別なY時。子どもたちが登場すると、舞台袖にいる快快メンバーがやんややんやとはやしたてる。こーじさんとゴリラの対決の白熱っぷりに押されて高まる子どもたち。このグルーヴ。

子にんぎょたちの、一人ひとり考えたきらきらの魔法。

ロボたちの、恥ずかしがりながらの努力。

楓馬センパイのカエルの暴走。

「カエルー!この剣を見ろー!」「うるせぇ!」

大爆笑。

お祝いダンサーズの決死のステップ。

あー、本番2日間、たった2日、だけど2日。どんな奇跡が起きてもそれは単なる奇跡じゃなくて、物語はずぅっと変わり続けるんだなぁ。



2012/11/22

Y時制作日記(2)

今日は中村児童館の第一学童で稽古。ひとしきり昨日のカエルの話題で笑う笑う。
ぼくは昼過ぎまで結局「しおり」の制作。しおりを渡したことによって、世界観が広がる広がる。

そのご、文美さんの車で光が丘へ移動。6時間授業のあとでくたくたに疲れた男子たちは集中力を欠くが、なんとかやり通した。絹代さんもつかれ気味だったけど、すごいなぁあのひとタフネスの人だわ。そして、ここでも「しおり」はモチベーションになっていた。

そのあとデコの準備を淡々とやっていた梨乃さんの手伝いをしてた中1男子から恋を告げられて悶絶したりして。

そういえば昨日面白かったのは、稽古場として使わせてもらっていた学童クラブの子どもたちに篠田さんが「誰ー?」と問いただされていたときのこと。

「誰〜?」
「今度劇やる人だよ」
「え〜?おばさん?」
「そうだよ」
「きゃはは、ほんとはおじさんなんじゃないの?」
「おじさん、でもある」

えー!!と思って。「おじさんでもあり、おばさんでもあり…」アイデンティティが複数で複雑すぎる。さすが練馬の一角獣、バンコクの蜃気楼こと篠田千明。この話ときどき思い出し笑いします。

Y時制作日記(1)

快快『Y時のはなし』の制作が全部で11日間のリハーサルのうち、3日が終わった。快快の集団制作のグルーヴが高まって、子どもたちにも波紋し、すごいことになっている。

今日、ずっと習い事があって参加できない、と言っていた子が申し込み用紙を持ってきた。これは、①11月24日(土)・25日(日)の集中稽古および12月1日(土)・2日(日)の本公演に参加できること、②肖像および著作を快快の作品として使うこと の2点を承諾してもらうための手紙でアー児が用意したものなのだけど、この子はこの手紙を見せながら、お母さんに習い事を休ませてもらえるように交渉したのだとか。この手紙は単なる手続きだけじゃなくて、子どもたちが自分でスケジュールを選択するための交渉材料にもなっていることが想像できる。だから子どもにもわかる内容でレイアウトしたり、イラストくわえたりして一手間することが重要になるだろうな〜と思う。

あと今日印象に残ったのは光が丘なかよし児童館でのやりとりで、ツイッターでも言ったけど、これ。



今日光ヶ丘なかよし児童館で出演する小6男子とその友達の女子のやりとりで、「そうた君も出るの?」「そうだよ」「誰にやれって言われたの?」「やれって言われたっていうか、やるって言った」って言っててグッときたよ。



自分の意志でここにいることちゃんとわかってるし、多少恥ずかしい思いをするかもしれないことを、人のせいにしてない。こんなにもすぐ人のせいにする大人が多いのに、おまえ!と思ったらもうぐーっとくる。



あとは、100%夏休みのころからカエル役をやりたがっていた楓馬が、ついにそのカエル役のために生まれてきた自身のカエル性を爆発させたことです。もうこれは見てもらわないとわかんないなぁ。

どうにかして見たい風景があって、そこに何とか辿り着けそうだという希望が見えていて、全力で向かっているんだけど、その風景に出会い触れることができたとしてもたったの2日間で終わってしまう。見たい風景とは結局日常からすこしだけ浮遊するための場であって、2日間の限られた時間の幻で、それに魅了されたからまたそれを追いかけるんだろうな。


2012/11/11

公共文化施設のコミュニティ・プログラム


今日は世田谷パブリックシアターで「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」と題したシンポジウムへ。

考えたことは、「公立文化施設のコミュニティ・プログラム」に関わる人たちの「必要」とはなんだろうか、ということ。

第1部のテーマは「(コミュニティ・プログラムの)目的・対象・方法」。

公共文化施設に対して、まず税金を払うという関わり方をしている市民、区民、都民の「(潜在的な)必要」というのがあって、それにエクスキューズすることが公共文化施設の仕事の一つとなる。会田さんが言っていたように、公共施設の事業は行政の政策と不可分なものであって、プログラムを作る人がただ単に自分の興味関心でつくっていていいわけではなくて、議会での審議を経て提示されている自治体の政策方針とか、政策内容とか、施設に求められるものや自らが掲げるミッションと、プログラムをかみ合わせていくという作業がいる。

プログラムに参加する人びとの「必要」というのは、「これに参加すればこういう効果が得られる」とか「こういう知識を学べる」とか「こういう快楽が味わえる」ということだけでなく、「あたらしいものに出会う」という好奇心を満たすことであると考えてみる。しかし、好奇心の強さやベクトルは人それぞれだし、いろんな好奇心の有り様に応答していくこともまた、プログラムを考える側の仕事になっていく。

わけのわからないものに出会ったときに、それをしりぞけ思考停止させるのではなく、それに対して取り組むことが創造力だ、という会田さんの話にはすごく共感したし、わたしたちはどうしていったらいいのか、ということを美術や科学や演劇やメディアアートを通して、議会とは違う在り方で考えることができる場がコミュニティ・プログラムだとする野村政之さんの考え方にも。人びとが文化を更新していく創造力をもって未来というわけのわからないものに向かっていくためのコミュニティ・プログラムなのであって、そのために人が集まる場をつくり、集まった人びとがモノゴトをつくることを楽しめるような工夫をする。

個人の好奇心からだけでなく、仕事に関わる「必要」もある。たとえば学校の先生達は、鑑賞教育が組み込まれたときから芸術作品を鑑賞する、ということを身をもって子どもたちに伝えることが必要になり、よりよい鑑賞教育の方法を模索しているという。東京都現代美術館の郷さんは、アーティストの訪問事業に加え、先生たちの研修会に美術館の一室を提供したり、先生が無料で展覧会を鑑賞できるプログラムを実施したりして、この先生たちの現状に積極的にコミットしている。

そして最後に、プログラムをつくる側の「必要」というのはなんだろう、ということ。自分もそうだから、自分の「必要」を語るとすると、まず前提として自分がいいと感じる芸術を信じているし愛していると思う。そしてそういう芸術が人びとにエフェクトしたり、人びとからエフェクトされて芸術が変容していく風景をみたい、という「必要」、というか欲望がある。とくにそれが子どもであり、子どもの遊びによって芸術が変容しより奥ゆきを増していくプロセスに興奮するし、その興奮は生きていく上でもはや「必要」だということ。

あらかじめ定まっている未来などなく、いま・ここにあるのは、すでに生まれた人やモノゴトと、これから何かが生まれるという予兆であって、できることはそれを予想すること。そして、それを形にするのはほかでもない人びとの意志や行為だし、その形の価値はどんな文脈におき、どんな言葉や数字を与えるかでいかようにも変化する。人びとの必要というより意志を知り、何を為しているかを知るために、プログラムをつくる人間はよく耳をそばだてておかなくてはなるまい。そうして集めた情報や感じた気運から、人びとと何を為したら面白いかを想像し、すでにそこにあるモノゴトや文脈とすりあわせながら、それが実現するための時間を組み立て、空間に人やモノをあつめ、出来事を生み出し、その後に言葉や数字をあたえていく。面白い仕事だなぁーと思う。手仕事やフットワークによるプログラミング。

とはいえ、アーティスト・イン・児童館としては自治体の政策についてのリサーチも足らないし、ミッションももうすこしバージョンアップしたほうがいいし、文脈の整理も甘い。ドラマツルギーが要る。来年はいろんな情報を収集し、文脈をつくる作業に1年を充てて考えたい。

で、第2部は「地域と子ども」がテーマ。だったはずが、第1部とほとんど同じテーマになっていたような気がする。こういう場で質問するのは苦手というかあんまりやったことないのだけど、「ワークショップという言葉がたくさんでてきたけど、ワークショップはサービスと考えていますか?それともクリエーションだと考えていますか?」という質問と、「地域の子どもたちに施設をどのように活用してほしいと思っていますか?」と聞いた。

「ワークショップはサービス。そうでなければ市民に作品に奉仕してもらうかたちになる」と言い切った柴幸男さんは鮮やかで、なおかつ「ワークショップじゃなくても、地域のなかに作家の存在があって、創作の現場があるだけでいろんな影響や効果があると思う」という話には頷いた。どうやってその効果を測定すればいのか、また、どうやってその影響を効果的に生み出すことができるのかはまったくわからないけれど、アージにトライできる重大な部分な気がする。

大変刺激になった一日でした。明日からまた走る。

2012/11/10

不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。


今日はこーじさんの中村小劇場。Y時のはなしの夢のシーンの稽古をする、ってことになったんだけど、1人途中でやりたくなくなっちゃった子がいた。最後は結局やってたけど、彼らの意志のありようを、もう少し作りこんでいきたいなぁと思う。

アーティスト・イン・児童館の企画に参加する子どもたちは、何かを予感して唐突に決意をする。面白そうという予感とか、やってみたいという希望の根拠は整理ないくらいいろいろある。裏を返せば、あんまりない。



しかし、そのあとに、予感したこととは違っていたり、不安になることもあったりとかして、彼らの気分はこれまた唐突に重たくなったりする。子どもたちにとっての「気分」とは、自分では制御できない自分の外側からところから訪れるものだと思う。何かを楽しみにしているときはグルーヴに流され、何かに不満をもっているときは得体の知れない重さに沈められていく。大人は、経験を参照したり、言葉を駆使したりして、「これが原因で落ち込んでいるから、こういうふうに考えよう」とか、「こういうことが自分にとって楽しみなんだな」と感情を言葉を使って整理することができたりする。子どもはそれができないからダメというわけではなく、そういう言葉の使い方じゃない生き方を体現しているという意味で。


彼らの身体に流れたりのしかかったりする、なんだかわからない気分だか気運だかに翻弄されながら、快快のメンバーは彼らの意志を信じて、一緒に舞台に立つ場面を想像しながら、制作をすすめている。子どもたちが舞台に立たないことを選択するかもしれないし、環境が彼らの意志に関係なく可能性を断つ場合もある。風邪をひいちゃったりとか、家族の用事とか、どうしてもやりたくなくなっちゃうとか。一度決意したらもう出演する以外の未来はない!というわけではなくて、そこは環境や本人の意志に委ねられる。ここに義務はなく、あるのは彼らの意志と、それを叶える/叶えないを決める環境であり、それを運命と呼んだりもするわけで。


その先に何があるのかといえば、舞台に立ち人に観られるという経験が待っている。もちろん、その経験が至上のものだ!というわけではなく、もしそれがかなわなかったとしても、今回はできなかったけど次回は、とか、観客として楽しむとか、彼らの人生に多様な可能性と経験を与えていることにほかならない。次回はやりたい!という雪辱にも似た気持ちを持つことは希望だし、自分は観客のほうがいいやという気持ちは見る目を養うし、演劇なんて大嫌いだ!という感情はそれを抱えて生きる人にしか見えない風景をもたらす。どれも、どうなっても、いいことだ。


舞台に立ちたいという意志をもち、環境に選ばれた子どもたちは、ホールに現れた百何十人の観客のまえで自分の身体をつかって表現をする。これは彼らにとって日常の遊びからのワープの体験であり、それはいつもの教室や家や遊び場とは違う、いったいなんだかわからない価値体系の中に居ることになる。面白おかしいコスチュームを着て大きな声でヘンテコなセリフをいうことは、日常では奇妙で忌避されることであっても、舞台ではそれが賞賛される。遊びの中でウケ狙いで芝居めいたことをやることはあったとしても、舞台ではそれをガチンコでやらなきゃいけない。舞台でもウケを狙うが、それはオフザケではなくガチ。


それに加え快快というチームの面白さは木村覚さんの言うように(※)、"役者が「役者」であることから半分降りて当人として舞台上に上がっているようにも見える"ところにある。児童館では快快のメンバーは(個々人が強烈な個性を持つことは間違いないが)子ども向けにキャラづくりも特にしていないし、稽古をするときでも、役になりきっているというよりは、その役を演じている本人、として演劇をしている。児童館の子どもたちは、役者として舞台に立っている山崎皓司や野上絹代や竹田靖ではなく、友だちなのか先生なのかよくわからない大人として出会っていて、そういう不思議な間柄で仲良くなっている。そういう大人たちが舞台にたって演劇をしているものだから、たぶんそこが舞台なのか児童館で遊んでいるのの延長なのか、明確な分別がないままに公演を終えることになるだろう。


舞台というよくわからない価値体系の場所と、日常の遊び場が入り交じっていき、そしてそれが作品として見知らぬ他者に見られたり批評されたりするという不思議な旅は、唐突に始まり、そして終わる。またひょんなきっかけで彼らの前に旅路が開かれることがあるかも知れないし、もう無いかも知れないし、旅がしたくなったら自分で旅に出るかもしれない。

いま、快快プロジェクト『Y時のはなし』は本番3週間前を迎え、軽いも重たいも楽しいも不安も、うねりながら12月1日の初日に向かっている。気がする。

臼井隆志



※快快『りんご』:artscapeレビュー/プレビュー

2012/11/05

終わるということはとてもいいこと。


11月2日。アサヒ・アートスクエアで撤収作業をした。みんなで作業をすると、終わるから気持ちがいい。なんか009のキャッチコピーが「終わらせなければ、始まらない」なんだけど、プロジェクトもそうで、終わるということはとてもいいこと。その後浅草でハマくんと餃子をたべて、そのながれでシオリと新宿でグラタンをつつきながらビールを飲んで、夜行バスで仙台へ。


11月3日。文部科学省主催のフォーラムでポスター展示。3.11以降の復興に向けた教育活動が多く、東北の、未だ揺れ動くそしてますます窮屈になる空気のなかで、活動する人たちの意気込みを感じた。

11月4日。まちづくりセンターの助成金の中間報告。《放課後メディアラボ》についてのいろんなプランが浮かぶ。


11月5日。絹代さんの「FAIFAIの親子DEダンス」の二回目。進化した親子ダンスで、10数組の親子が参加した。とっても良い風景でした。そしてそのあとは池袋のファミレスで3時間ミーティング。色々決まってきたよー。

『Y時のはなし』快快×アーティスト・イン・児童館
チケット予約はじまってます。

2012/11/01

終わったあと何にどうつながっていくかまで想像して



《Form on Words: ネクスト・マーケット「ジャングルジム市場」》がなんとか無事に終わって、ほっとしてたら今日は朝起き上がれなくなった。

イベント一個かたちにしたからって喜んでるようじゃだめで、そのイベントが終わったあと何にどうつながっていくかまで想像して、備えておけるぐらいの仕事っぷりが、マネジメントとしては理想なわけで。

そんなわけで、続く《Y時のはなし・イン・児童館》はそのあたりも意識したいと思っているんだけど、広報のこととか児童館行事との兼ね合いのこととか、わりとあらが出てきてる。もっとシンプルに、目標を設定して軽やかな頑張り方できるように、思考をきりかえにゃなー、と思う一ヶ月前。

でも、やりきってみると必ず次に繋がる、というのは経験的に知ってるから、その経験と感触をたよりに、やりきるための神経を高めていくしかないわな。久しぶりに400mハードルやってたころの、中盤の切り替えみたいな気持ちになってる。

ナイロビやパリとスカイプで話したりして、今週はなんだかインターナショナル。自分の仕事も、ヨーロッパにもっていったら面白がってくれる人けっこういるんじゃないかな〜と最近イメージしてて、実際にヨーロッパで仕事したいなと思い始めた近頃。

まぁまだまだ未熟だけども、再来年ぐらいには一回ヨーロッパで仕事したいな〜。