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2016/05/02

幸せ、日陰、闘い ー酒井順子『子の無い人生』を読んだ。

TBSラジオの『荻上チキ・session-22』をPodcastで聞きながら電車で通勤するのが僕の日課なのだけど、4月5日の「session袋とじ」のコーナーで、酒井順子さんの『子の無い人生 』という本が紹介されていた。ラジオを聞いて、「子どもがいない私は誰に看取られる?」という痛烈な問いとか、「子育て右翼」という興味深い見立てとかを聞いているうちに、この本をなんだか読まなければいけない気がして、amazonで注文した。


"酒井順子、はたと気づく。独身で子供がいない私は、誰に看取られる?『負け犬の遠吠え』から12年、未婚未産の酒井順子の今とこれから。30代は既婚女性と未婚女性の間に大きな壁がありました。結婚していなければ単なる「負け犬」と思っていた酒井順子は、40代になり悟ります。人生を左右するのは「結婚しているか、いないか」ではない、「子供がいるか、いないか」なんだと。期せずして子の無い人生を歩む著者が、ママ社会、世間の目、自身の老後から沖縄の墓事情まで、子がいないことで生じるあれこれを真正面から斬る!" (amazon内容紹介より) 


この本のトピックはなんだかとてもデリケートに感じられて、ヒリヒリしながら読み進めた。ホームパーティーでの専業主婦の人たちの、子どもがいない人たちへの無自覚な哀れみがにじみ出た言葉を聞いたことや、子どもがそんなに好きじゃないという酒井さんの気持ちの吐露から始まり、子育てと政治、子どもがいない女性が死んだ時にどうなるかについてのフィールドワークなど、話題は多岐に及ぶ。とりわけ、子育てと政治の話と、沖縄のトートーメーについての話、そして「1人で死ぬこと」についての話などは興味深く読んだ。

トートーメーとは、沖縄の位牌で、個人や夫婦の戒名ではなく、先祖代々の戒名が位牌札というものに記されて収められているものだそうで、いわば「集合住宅のような感じ」とのこと。本の中では、このトートーメーには、バツゼロ独身の人は入れないとか。

タイトルを一見した時は、子どもがいないことに対する個人の気持ちを吐露するエッセイなのかなと思ったのだが、そうではなく、子どもがいないと死んだ時にどうなるのかという文化人類学的なアプローチでのリサーチだとか、子育てと政治の関係だとか、社会学的な内容も多くて面白い。さらには、そこに乗せられた酒井さんの実感が、この本を読んでいるときのヒリヒリしたりグサリと刺さる感じだったりを作り出しているんだと思う。

ぼくも日々facebookやinstagramを見ていて、知人友人の子どもの写真や映像を見ていて、元気が出たりほっこりしたりすることももちろんある。この溢れる子どもの映像には「子どもがいることこそが最上の幸せで、わたし(たち)は今その最高の幸せのなかにいます」ということが現れている気がするし、ぼくはその幸せに感染したがるように日々映像を吸っている。もちろん、その裏に尋常じゃない苦労があることも、精一杯想像しながら。ただ、その一方で、それが最上の幸せなんだというイメージが滲んでくると、そうではない人生は不幸なんだという機運も滲んできている気がする。それは別に今に始まったことじゃないかもしれないけれど、SNSは幸せを可視化してその幸せへの憧れを増強する仕組みをもっていて、そうではない人生をゆるやかに、やわらかく日陰にしていくような感じがある。

酒井さんはその日陰に生きる人を「負け犬」といい、自らを「負け犬」と定義して、その日陰から物語る。「結婚して子育てをするのが幸せ」という考え方だけが正しいわけじゃない、というのは頭ではよくわかっているが、その幸せの道を歩みたいと思っている人はたくさんいるわけで、ぼくもそうだ。それが幸せだというのはよくわかる。だがこの本からは、そうではない結果になっている人たち(結婚していない、子どもがいない)が不幸かというとそうではないだろう!と静かに闘う姿勢を感じた。今を生きる人々が多くの選択肢のなかで生きられるように、闘っている本だと思った。






2016/04/26

音に触れる、音をかたどる ーMother Terecoスタジオにて

今日は音楽ユニット「Mother Tereco」のスタジオに遊びに、本厚木に行ってきた。Mother Terecoは先日の絹代さんの舞台『GIFTED』でも音楽を担当していた電子音楽のユニットで、メンバーの難波くん、佐藤くんの2人はFORM ON WORDSが水戸でショーをやったときからお世話になっている尊敬するクリエイターであり、友人である。


車で颯爽とあらわれた2人は、天気がいいからってことで厚木の面白スポット「宮ヶ瀬ダム」に連れて行ってくれた。スパイ映画のロケーションで使われそうなインダストリアルな感じと、のどかな風景とがあいまって最高だったので、ダムを上からも下からも見た。


スタジオでは、Mother Terecoのシンボル的存在でもある「モジュラーシンセサイザー」の仕組みを見せてもらった。シンセサイザーって、キーボードにいろんなツマミがついてるやつ、ぐらいの認識しかなかったのだけど、そうじゃないだね。音の波形を変えることで、音を形作ることができて、それでメロディも作れるし、波形の変化だけで展開をつくることもできたりする。ぼくが野暮な説明をするよりわかりやすいサイトがあったのでこれ見てみてください。

最近ぼくが「触感」をテーマにしたワークショップを作っているっていうのもあって、音の波形を操作することで「プチプチ」とか「ふわーん」とか「ジュルジュル」とか、柔らかさや硬さ、液体感や鋭利な感じなど、いろんな音の質感をつくることができる、というのは単純だけど驚きがあった。電子音でメロディやビートをつくってシンセサイザーで音の質感を操作して…みたいなのが電子音楽だ、というのは簡素すぎる説明かもしれないけれど、Mother Terecoはここの波形の操作をより高解像度でいじっていて、手の巧緻性が音の質感の変化にダイレクトに影響するような音作りをしているし、そこにバイオリンなどの生楽器の音を組み込んでいて、音の幅を広げた演奏をしている。藤田陽介さんや、マイカ・ルブテさんとコラボレーションをしたりとか、活躍も目覚ましい。


電子音楽の歴史の話も面白かったし、そこから派生したアフリカンデスメタルとかKonono no.1とかの話も面白かったし、楽しかったのはもちろんなんだけど、何より「電子音を作ること」を自分でももう少しやってみたい、と思った。音楽は作れなくても、音を作って遊ぶことならなんかできそう!という感じを覚えた。まあ何かに影響されるとすぐそう思いがちなんだが、どう手を伸ばして、実際に触れられるものを身近に置いておくかなんだわな。なんか身近に手に入れられる道具ないかな。

難波くん行きつけの「酔笑苑」の炭火焼はどれも最高だったし、牛タン赤身刺しは最高のローフードだった。

ぼくは、音楽とファッションは苦手な分野だと思っていた、というのはどっかに書いたことがある気がする。映画とか小説は起きていることの順番をたどればその構成がわかるし、作り手の動機もなんとなく感じられるけど、音楽とかファッションは自分ではそれがわかんなくて、自分がわかんないっていうことが恥ずかしくて「なんかいけすかねえ!」みたいに思うことで自己保身してた。でも、縁があってこうしてクリエイターと関わってみて、自分もワークショップという手段で自分なりの動機を持って構成をしていく仕事を通して、作り手と歩み寄ることができて、はじめて音楽やファッションやその他の分野の面白さがわかってきた気がする。自分の家にミシンとシーケンサーが欲しい。

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2016/03/28

劇中劇中劇、お遊戯、事実 ー三月企画『GIFTED』を観た

劇団「ファイファイ」の野上絹代さんが、新しく「三月企画」というプロジェクトをはじめた。その旗揚げ公演である『GIFTED』を観てきた。http://www.kinuyo-marchproject.info/



絹代さんとは2012年にアーティスト・イン・児童館でファイファイを呼んで『Y時のはなし』の公演をやってもらった時からの付き合いがあって、2014年には水戸芸術館「拡張するファッション」やアーツ前橋「服の記憶」といった展覧会でFORM ON WORDSのファッションショーの構成・振り付けをしてもらった。いまのココイクの仕事でもお世話になった。尊敬する姉のような人だと思っている。今回の公演『GIFTED』では、ファッションショーの音楽を作ってもらったmother terecoが音楽を担当していたし、彼らの仕事と「ビッグバン」っぷりが見事だった。

演劇は普段なかなか見に行けないけど、見るのが好きだ。目の前の生身の人間が、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりして次々とイリュージョンさせて別の世界を立ち上げちゃうんだけど、触れようと思ったら触れられる身体や声はやっぱり目の前にある。目の前で巻き起こる言葉や声や歌や音がグルーヴして、観客のきもちがごちゃ混ぜになっていく。そういう感じの演劇を見るのが好きだ。

『GIFTED』は「時間はちょっとしたことで操れちゃう」という話から始まり、序盤では、絹代さん自身や役者の方々のプライベートな経験なのかもなと思われることがポツリポツリと語られる。小さな男の子を育てていて、同時に親の介護に週に一回行っていること。3人の子どもは家を出ていて、夫は7年前に先立ったこと。

子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。

本人と思われる語りからはじまって、保育士、子ども、母親、ママ友、おばあさん、介護士と役者はめまぐるしく役を入れ替えて演じていく。はじめは役を着ていない個人として語り、子どもの役をやり、親の役をやり、高齢者の役をやり、子どもの役の中で魚や動物の役をやり、その切り替わりのドタバタ感が可笑しくて可愛い。とくに子どもと母親のやり取りは、役者自身の経験の再現だろうなーと感じるし、それをプロの役者がやるものだから描写が細かくて楽しい。

お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。

クライマックス。子どもたちの卒園式のお遊戯会の演目を決めきれずにいた保育園の先生が、げっそりした顔で「浦島太郎はやらず、宇宙のはじまり、ビッグバンをやります」と言いはじめる。「今あるものが全部ないのがビッグバン以前です。そのために、みんなのことをなくしてみせます!」みたいなことを言って、子どものお絵かきのような絵を使ってタイムスリップが描かれ、戦争から江戸時代、原始時代から恐竜の時代へと遡っていく。その中で漂う女の子が、声や、音の裂け目を発見して、ないものからあるものが見つけられていく。

ありったけのエネルギーを使い、絶妙に微妙な手作り小道具を使い、これまた絶妙にダサいダンスがあり(これが最高すぎた)、大人が全力で大声を張り上げながらビッグバンをお遊戯していて、それがはじけた後、それはみんなそれぞれに事情や生活をもった個人なんだってところに還っていく。

過去の経験や記憶、お遊戯が媒介になって、嘘と本当とがごちゃ混ぜになって、今この時代を生きてるっていう事実が、今目の前で演劇になっているんだなぁと感じた。

そうそう、『GIFTED』を見て感じたのは、演者が観客に向けてなにかを物語る手法として演劇があるというよりは、演者も観客も含めてそこに集う人々の経験をごちゃ混ぜにして今ある事実とか生を肯定するものとして演劇がある。みたいなことだった。こういうの、なんていう概念なんだろう。

こんなふうに役者の個人的な経験が反映されまくるものって、好みは分かれるかもしれないけれど、この作品の世界への肯定感がぼくは大好きだったしずっと笑ってたし、ラストのラストでみんながある言葉を慟哭する場面は泣いた。

そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!

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2016/03/14

触覚覚書(1)

最近触覚についてやたらと考える機会がある。仕事で触覚をテーマにしたワークショップをつくっているからだ。なので、触覚についての自分の体験や考えたことをランダムにまとめておく。

・『姿勢の姿勢』
これまでほとんど考えたことがなかったけど、袖の通し心地のいい服は素晴らしい服、という革新的な体験をしたことがある。たしか、肘を曲げた状態で型をとってそれに合わせて立体裁断して作った服だったと思う。その服に袖を通した瞬間、びっくりした。まるで肌に吸い付くように、落ち着くのだった。ああ服というのは袖を通す楽しさで、それこそ触覚的なエンターテイメントなんだな、と思った。


・「耳ごこち」
大学時代のゼミの同期に、ノイズミュージックが好きな女の子がいて、なぜノイズが好きなの?って聞いたときに「耳ごこちがいいから」と言っていたのを覚えている。それまでメロディーや歌詞やビートだけで音楽を判断していた自分の概念を覆した言葉だった。たしかにコツコツと鼓膜を優しく叩いたり撫でたりするようなノイズは心地いい。音は内臓にも響く。それ以来音楽を耳だけじゃなくお腹や皮膚でも聴けるようになった気がしている。そのとき確か、evalaさんの話をしていた。


・『触楽入門』『第三の脳』

最近出会いのあった触覚研究者の仲谷正史さんをはじめとするテクタイルチームによる『触楽入門』を読んだ。そして、傳田光洋さんの『第三の脳』を読んだ。皮膚というのはまだまだ未知なる領域で、脳よりも先に皮膚が考えていること(色、音、気配など)がたくさんあるという話は驚きだったし、触覚を遠くに伝えたり、人間の触覚を拡張したりする新しいテクノロジーが紹介されていたのは面白く読んだ。テクノロジーが発展していくにつれて生身の人間の知覚は衰えていくんじゃないかと思っていたけれど、テクノロジーをより良く使うには、人間の知覚的リテラシーを深めていくとよいこともよくわかった。

・触覚と触り方
『触楽入門』で面白かったものの一つは、前半のほうの「触探索行動」というのの代表例で、「テクスチャー(表面を撫でる)」「全体の形(両手で包み込むように触れる)」「こまかな形(輪郭をなぞる)」「硬さ(圧をかけて押し込む)」「重さ(手のひらで受ける)」「温度(手を置いて静かにする)」というもの。触るという一瞬のことだけで、こんなにたくさんの情報がわかっているなんて!触ることが楽しい理由は、情報過多感なんだろうと思った。わっ!っと情報が全身を駆け巡る感じの楽しさなのだろうと。触覚的なエンターテイメントの可能性はまだまだ身近にたくさんあると思うし、その情報を言語化することで触感力みたいなものがぐいぐい育まれていく予感がある。

・言葉、関係性の中の「触感」

で、触覚のこと考えていて思ったのは、文章にも読み心地があるし、会話にもやり取りの感触があるということだ。「ザラザラした気分だ」とか「逆撫でするような言い方」とか、不快感を言いあらわすときもあれば、「スルスルとほどけていく」とか「ふにゃふにゃした気分」とか、気持ち良さを言い表すときもある。実際に触れ合っていなくても、心で感じている触感はあって、だから心は脳じゃなくて皮膚とか内臓にもある、っていう説をぼくは支持し始めてる。小説家が人間の心のひだを表現するとき、温度や質感など、触覚的表現を使っていることが多いことにも改めて気がついた。真っ先に思い浮かんだのは、川上未映子さんの『乳と卵』だった。

・触感と心
ということは、実際に手や体でいろんなものに触れて、いろんな触感を知っていることは、触感のボキャブラリーを増やし、それがすなわち心の感じ方を多様にしていく、ということになるんじゃないか。触覚が敏感で、触感の記憶力が豊かであることは、すなわち感受性の豊かさなんじゃないか、という気がしてきている。

・触感と道具とプロトタイプ
あとは「暗黙知」みたいなことをよく考える。言葉よりも先に手や体が先に動いていて、とても難しいことをやってのける職人さんたちはたくさんいる。感触を通して学ぶコツ、みたいなものとか、予想外のものが出来上がったときの喜びの感じとかって、それはスポーツにもアートにも工芸にも共通する人間の英知だと思った。たとえばプロトタイプをつくることって、大きさとか質感とか空間的な体感の仕方とか、頭や言葉で考える何倍もの情報がわっと飛び込んでくる。プロトタイピングってとても触覚的な知性だよな~とか。

・砂場遊びの楽しさ
あとは、子どもの遊びのなかの触覚性。砂場遊びはその典型だけど、水の加減で砂の質感が変化することや、水の流れ方や砂へのしみこみ方、砂の削れ方、あとは道具の使い心地など、いろんな情報がぐわーっと入ってくる。こりゃいいや、という感じ。

・エスカレートする触覚
砂場あそびって、最初は恐る恐る触っていくのだけど、だんだんエスカレートして最後は服まで泥んこになる。全身の触感が気持ちいいのは、ぼくも記憶にある。今やっても楽しいだろうな。指先で感じた触覚情報の豊かさが全身を包み込むともっとハイになるんだろうなと思う。

・皮膚から身体、言葉、テクノロジーに至る、触覚的エデュケーションとは?
さて、これは一体何か。これからさらに深堀りしていきたいところである。

2016/03/04

ハンズオン、SF、NY ーエクスプロラトリアム(1)



このあいだの2月10日から16日にかけて、アメリカはサンフランシスコとニューヨークを旅行してきた。なぜアメリカに行こうと思ったかというと、ひとつは今の仕事についてから初めてもらった休暇だったから。もうひとつは20代最後の一人旅になりそう~っていう予感がしたから。みっつめは、以前から自分の企画の参考にしまくっていたエクスプロラトリアムという科学博物館があって、たまたま11月にそこに行った同僚から「うっすんは(そこに行って見てくるの)マストでしょ」と背中を押してもらったからだ。


アメリカにいって感じたことはたくさんある。英語圏の国にいったのは初めてだったので外国で言葉がわかる!というのが不思議な感覚だったということ。あと、エクスプロラトリアムにしてもNYで見たMOMAにしても、視覚文化の国なんだな~ということ。日本の焼き物とか茶道とか禅とか、見えないものに美を見出す文化っていいもんなんだな~と翻って思った。なによりアメリカでの食事は胃もたれするものがおおくて、「出汁」には改めて感謝した。他にも、サンフランシスコはみんなジョギングしてるしヘルシーだなぁとか、マンハッタンは映画のシーンで見たものがたくさんあるな~!とか。


エクスプロラトリアムについて


さて、目的のひとつだったエクスプロラトリアムについてである。まず概要はウィキペディアから引用。(太字部分はぼくの編集です)

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ジエクスプロラトリアム(英: the Exploratorium)は、子供と家族向けの科学博物館。名称は「探検、探究する」(explorer)と「ホール、講義室」(auditorum)からの合成語。
アメリカ合衆国カリフォルニア州サンフランシスコのパレス・オブ・ファインアート(美術宮殿)の港湾地区にある。当初、倉庫を改造してつくられた。2008年現在では、サンフランシスコでは最も人気のある博物館の一つで、年間50万人以上の入館者がある。同館は1969年に物理学者で教育者でもあったフランク・オッペンハイマー(en:Frank Oppenheimer)のアイディアと尽力により作られた。彼が初代の館長に就任し、1985年に亡くなるまでその地位にあった。運営団体は、NGO組織で運営されている。

エクスプロラトリアムは、観客が触って体感できるハンズオン展示、体験型の科学と芸術の展示によって、科学を知識だけでなく体験によって理解することを重視した最初期のサイエンスミュージアムの1つである。観客が参加・体験できる展示には、ドイツ博物館の先例があるが、科学に重点を絞った展示では同館とカナダのオンタリオ・サイエンスセンターが最初である。同館の展示には、科学者や教育者だけでなくビジュアルアーティストやメディアアーティスト、パフォーミングアーティストも加わっている。芸術家が半年以上滞在して展示物を制作・発表する「アーティスト・イン・レジデンス」の制度も整っている(日本人では岩井俊雄などが参加)。こうした同館の姿勢は、開館以来一貫して掲げられてきた標語「科学、芸術、そして人間の知覚のミュージアム」(Museum of science,art and human perception)に示されている。その意味で、サイエンスミュージアムであり、同時に体験型アート、メディアアートのミュージアムとしての特徴も併せ持っている。

こうしたエクスプロラトリアムで生み出された展示デザインのノウハウは、世界中の科学博物館でもそのまま再現して製作、展示できるように、ノウハウのすべてを『クックブック』(Cookbook、調理本)という名前のマニュアルにまとめて3巻まで刊行されている。子供向けのこの博物館を利用しながら楽しく科学を学ぶためのシリーズ本は『スナックブック』(おやつの本、Snackbook)という名のシリーズで刊行されており、いずれも博物館のミュージアムショップで購入することが出来る。一般の書店でも購入は可能である。

展示について、他では再現出来ないもの、たとえば「ウェーブ・オルガン」のようなもの、サンフランシスコ湾のこの特定の場所でのみ可能な展示というものもある。エクスプラトリアムは、多数のオンラインの科学展示や実験を盛り込んだウェブサイトも1993年から運営している。このサイトは、1997年最優秀の科学サイトの表彰が始まって以来既に5度ウェビー賞(Webby Award)を受賞している。

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実際行ってみると、校外学習できた小学生から高校生ぐらいまでの子たちがたくさんいて、「What's this!?」「Wow‼︎I love this‼︎」「Hey hey hey!!!Try this!」という言葉が飛び交い、ハンズオンのたびに「Hooooooo!」という感じだ。会場はこんなかんじ。⬇️


面白かったハンズオンをいくつかご紹介。


まずは定番の触覚の錯覚。触ったコイルの温度が違って感じる、というもの。こんな風に感覚を使って、注意深くさわらなきゃいけないので、普段よりも感覚を鋭敏にしなければならない。


砂鉄の仕組みも、これも定番。


これも定番。今やっている触覚の研究企画でも参考にさせてもらった「タクタイルシアター(触覚の劇場)」。


光の三原色。

植物や微生物に関する研究・展示をしているバイオラボ。ビデオの最初で説明している説明員の人がボランティアなどで集まってくる。来た人を楽しませるプレゼンテーション能力、そしてハンズオンを集中してできるようにするファシリテーション能力が問われる。鍛えられそう。

ほかにも新しく移転してからできた社会心理学の体験コーナーなどもある。会場内には600近くのハンズオンがあるそうだが、続けて体験していくと「世界って不思議に満ちてるよね!」というメッセージを体感する。

ぼくは普段仕事をしていて、サイエンスとかアートを身近に感じて何の意味があるんだろう、ということをよく考えている。それはぼくたちがよりよく生きることができるようになるためだろう、と思う。思考停止しちゃうより、何かを探求し続けたほうが面白いと思うし、世界が鮮やかに見えて楽しくなると思うし、悲しくなって死ぬっていうことがなくて済むと思う。探求は大小さまざまなスケールで可能だし、自分にフィットするスケールややり方に出会えるかどうかって全然違うよな~と思う。エクスプロラトリアムから生み出される様々なハンズオンは、触れて、いじって、世界をその手で探求する面白さを味わわせてくれる。

そんなわけでエクスプロラトリウムは「世界って探求しがいがあるでしょ~」というメッセージに満ちていたし、エクスプローラー(探求)とオーディトリウム(会場)を合わせた場所の名前が表すとおりの空間だった。

エクスプロラトリアムの運営の面白さ

ここに来る前からこの場所に惹かれていた理由は3つある。


ひとつは「ハンズオン展示」。物理の仕組みを本で読むのではなく、実際に見て、触って、聞いて、体験することで理解していく。なんといってもその展示品の手作り感、アナログ感がかわいいし、それがよりサイエンスを身近に感じさせてくれる。


ふたつめに「アーティスト・イン・レジデンス」。なんとこのミュージアムには巨大な工房があって、木工だけでなく金属の溶接とかガラスの加工とかもできてしまう。会場から観客も作業の様子を見えるようになっている。そこにアーティストが来て、科学者と職人と影響しあい、プロトタイプを作りながらハンズオン展示が生まれていくのだ。ぼくは滞在中のアーティストに会うことはできなかったが、ハンズオンに書かれているクレジットから、科学者と職人とアーティストが楽しそうに切磋琢磨している様子が思い浮かんだ。


みっつめは「オープンソース」。上記の通り『クックブック』(amazonで買うとやばい値段になっているが実際は100ドル)や『スナックブック』、そしてなんとウェブサイトで「Science Snack」というページでも公開されている。クリエイティブ・コモンズのムーブメントが盛り上がる前の1993年からこういうことをしていたというのだから、オープンソースの古典であり先駆けだ。

The Tinkering Studio


だが何より僕をひきつけたのは「The Tinkering Studio」の存在。紀伊国屋でネタ探しをしていたときに見つけて、速攻で使いまくった本がこちらですが、その現場を実際に見てきた。


ティンカリングスタジオは観客のハンズオンのための場所であり、アーティストと影響し合う場所であり、そしてオープンソースである。エクスプロラトリアムでプロフェッショナルの人たちがやっていることをミニチュア化して、一般の人たちも超手軽に体験でき、実際にいじくりまわして失敗しまくってもよくて、物事の仕組みを学ぶことにのめり込むことができる場所になっている。

今回幸運にも、そこで働かれている松本亮子さんにお話を聞くことができた。

(続く)





2016/01/19

大人と子ども、クロスフェード 

久しぶりに中村児童館にいって子どもたちと戯れた。普段の仕事では3~4歳と多く関わっているので、久しぶりに遊ぶ小学生がだいぶ大人に見えた。

一方で、今朝の朝日新聞のこの記事 (18歳って大人?精神科医・斎藤環さん:朝日新聞デジタル )には「25歳からが大人では?」という意見が書かれていた。

読んでみて思うことは、子どもと社会をつなぐ枠組みとルートのなさへの嘆きがこの記事の問題提起の核なんだろうなということ。だから、ここでの提案は大学を卒業して働くことを通して社会と自分との接点をヒリヒリするなかで経験した25歳以上にすべきだと言わざるを得ない、といういささかネガティブな提案になっているのだと思う。

とはいえ、ぼくもこの意見には概ね賛成で、なぜならぼく自身も大人の自覚みたいなのが芽生えてきたのが25歳ぐらいだったなぁと思うからだ。社会は自分基準で動いていないのに、自分本位で動いているように考え、振舞うことでたくさん失敗をした。子どものうちにこういうことを楽しみながら学ぶことができたらなあと思う。

その話でいうと、2014年の夏に参加したシンポジウム《ミュンヘン市の「こどもと家族にやさしいまち」-こどもによるまちづくり提案事業から学ぶ-》での衝撃は、子どもと社会をつなぐ枠組みやルートの設計次第で小学生でも子どもにはできることがたくさんある、ということだった。その具体的な内容についてはこちらの記事(「ミュンヘン、子ども、政治/遊びの仕組み」)にまとめている。

こちらの記事はより本格的な取材に基づいてまとまっている。→「ドイツの「子どもにやさしいまちづくり」が本気すぎて学べる 」

ぼくの失敗の経験から子どもたちに学びの場を提供したいなんておこがましいが、それはさておいても子どもと社会をつなぐ場がもっとあっていい。この事例のように、遊びの仕組みと政治の仕組みがクロスフェードするような場を、小さくてもいいから作っていくことだろうと思う。これにインターネットが絡んでくると、さらに面白くなりそうだな〜と予感する。何はともあれ、楽しくて興奮できるものでなければ子どもの気持ちは動かないし、それは大人だってそうなんだと思う。

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2016/01/12

観光、キャンプ、経験値 ー『弱いつながり』と『キャンプ論』

東浩紀『弱いつながり 検索ワードを探す旅』を今更ながら読んだ。ネットは絆を強くし、リアルは弱い絆でつながっている。特定のコミュニティ(
=「村」)に固執するのではなく、複数のコミュニティをあるていど無責任に渡り歩き、偶然性に身を委ねながら「観光客」としてできることを実践していくべし、という現代の人生論。

ぼくはこの本の内容に素直に共感した。ぼくは責任感というより自己顕示欲が強いからか「村」みたいなものに固執する癖がある。それが悪いことだとも思わないけど、その一方で「あるていど無責任」ということが可能な社会だというのもなんとなく知っている。

例えば飲み会もそうだろうなと思う。計画的に設計された飲み会はあまりにも退屈で、なんとなくいい加減に集まった飲み会がやたらと楽しかったりする。呼んだり呼ばれたり、みんなあるていど無責任に適当に集まってきて、コミュニティが横断されていくのはいいことだと思う。「せねばらなない」な〜んてこたないのだ、という気になってとても楽だ。

ただ、飲み会ではなく仕事だとしたらそう簡単にはいかない。「観光客としての生き方で働く」って例えばフリーランスのライターや編集者、デザイナーの人を思い浮かべる。フリーランスで生きていけるのはやっぱり強い個人で、ぼくはそういう人たちをとても尊敬している。観光客的フリーランスで働いて生きていくには、安定した技術と、新しい場所や取り組みを恐れない勇気がいる。

『弱いつながり』では、観光は「表層を撫でるだけ」だけど、その場所についての本を何十冊読むよりも強い体験になる、ということが書かれている。観光に期待しすぎてはならず、その場所にいって表層を撫でることの感度をあげていく、みたいな話。この話にやたら共感できたのには理由があった。

思い返せば大学時代に所属していた加藤文俊研究室が実践していたこともそういうことだった。この本よりも以前から『キャンプ論 あたらしいフィールドワーク』というかたちで提案している、旅のかたちがある。


加藤先生のいう「キャンプ」は、東さんのいう「観光客」よりももう一歩踏み込んで、ゼミ生たちがその土地に暮らす人たちへのインタビューをし、ポスターやマップにして返還する、という、観光客とコミュニティの間に贈与関係を成り立たせている。その意味で「責任」は「観光」よりも重い。偶然性の範囲がデザインされているので、出会った人の話が聞けたりして深まりもある。「観光」のほうが自由だが、経験の深度は「キャンプ」のほうが深い。この「キャンプ」をいくつか経験しているおかげで、ぼくが旅行に行った時に、無責任にぶらぶらしつつも、裏路地にいったり人に話しかけたりするのを躊躇しない姿勢ができたんだろう。

もうすぐ30歳になるがまだまだまだまだいろんなことをもっと知りたいし深い経験値のためのあくなき観光をつづけたいと思うので、この2冊について考えたことをなんとなく整理した。

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