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2011/11/12

壁、亀裂、道、判断


昨日は朝起きたらぼんやり熱があって、昼前ぐらいに「ヴォ!」っと発熱。もうなんかそういう音が聞こえるようだった。身体のいたるところが断続的にスパークするように痛む。そのあと深い眠りについた。朝起きてすっかりからっぽになった身体は、新しいものを入れる準備ができていた。発熱は、不要になったものを燃やすためなのだろう。



夜は、Port B『国民投票プロジェクト』の「クロージング集会」へ行ってきた。高山さんが今回のプロジェクトのプロセスをふりかえる途中に、プロジェクト中に生まれた詩と短歌の朗読、そして今回のプロジェクトを構築するのに参照したテキストの引用などが織り込まれていく。単なるシンポジウム形式ではない、演劇的な構成に、このプロジェクトが集約した姿を観た。

うまくまとめられないが、"亀裂"と"道"という言葉が何度も登場した。ぼくたちを覆う"壁"があって、そこに入った小さな"亀裂"は、"壁"の外側に抜け出るための細い"道"になっている、とぼくには聞こえた。

が、果たしてこの"空気"の正体とは一体何だろうか。「常識」?みたいなもの?

ある「区切られた時間」「直線的にすすむ時間」のことだろうか。だとすると、ほそい"道"を抜けた先にあるのは、前も後も右も左もない、時間が草むらのように広がる世界ということだろうか?

もしそういう世界に自分自身が放り出されたとしたら、時間を区切り、小さな"壁"をつくるだろう。その"壁"のなかに、誰かを騙し、閉じ込めようとさえするかも知れない。あぁ、そういうことか、「政治家/裁判官としての観客」というのは。観客よ、お前が決めろ、っていうことだ。

ううん、しかしまだまだ思うところがある。高山さんが"道"という言葉を使って言い表そうとしていたもののイメージだ。これはまた今後のシュクダイに。

2011/10/19

主体か、メディウムか

ー"声"の向こうに"壁"が見える 《Referendum ー国民投票プロジェクト》

《Referendum ー国民投票プロジェクト》のキャラバンカーとフォーラムを観てきた。

キャラバンカーの中で鑑賞できる中学生たちのインタビュー。福島と東京の中学生の"声"は、自信をもって言えているものと、とまどいうろたえているものと、そして用意されたようにスムーズに答えているものがあった。自信をもって言えている部分は、個人的な習い事や趣味のこと。それ自体は彼らが自分の身体から離れた所で起きていることに対して、自覚をもって何かを言える、政治的な主体になりえていないことをあらわしてる。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と思うような中学生の表情・たじろぐ仕草が焼き付いてはなれない。彼らを戸惑わせる質問と、彼らの個人的な生活のあいだにはへだたりがある。映像を見ていて浮き彫りになるのは、その"へだたり"だ。あるいは想像力をさえぎる"壁"と言い換えてもいいかも知れない。彼ら中学生はその"壁"を前景化させるメディウムである。"壁"が前景化したところで、映像化し"中断"しているのがこのDVDたちであるように見えた。

キャラバンカーが東京をめぐり、福島に戻った時、福島と東京の中学生のメディウム同士が出会うとき、その"壁"の秘密に出会えるのだろうか。この一ヶ月、目が離せないプロジェクトになってきた。


ー意思決定をする子どもたち 山本高之プロジェクト《きみのみらいをおしえます》

同時に進行している、自分が今、学びながら実践しているプロジェクト《きみのみらいをおしえます》。山本さんは、「占いを自分でつくってみて」と投げかける。そこに、子どもがつくった見本は見せない。世界各地の占いの例を見せて、身近な素材でそれをどうやってつくるか、その方法は示さない。

「そんなこと言われても、想像できないよ」と子どもたちは思っていたはずだ。占いのルールの作り方や小屋の作り方、衣装の作り方は、スタッフの提案や子どもたちの閃きをもとにつくられたものだが、それらはすべて「どうしよう」という戸惑いを経て生まれたものだ。こうすればできるよ、という方法を指定されたものではない。

想像力の射程範囲内の、少し外側にゴールが設定されている。がんばらないと辿りつけない。少しずつ、つくりながら、想像力を拡張していく感じだ。想像力の限界と、その先にあるゴールの間の余白で、彼らの知っているイメージ・知識が総動員される。そこで、イメージのコラージュができあがる。子どもたちはメディウムになって、彼らに誰かが与えたイメージや知識を反映する。

しかし、山本さんは、その想像力の拡張を、撮影することで"中断"させる。もっと練習したり、クジや占いの文言のバリエーションを増やすこともできるが、ある程度で"中断"させているのだ。しかし、この"中断"によって、新しい時間が生まれる。それは映像になった自分の姿をウェブサイトや展覧会で観るときだろう。フレームで切り取られることによって、別の「占い遊び」だと思っていたものに意味合いが付与される。こうして、子どもたちの経験は、「遊び」「撮影」「展覧会」「インターネット動画」というように、メディウムの連鎖の中を移動する。実際に制作していた時とは違う、経験の拡張がすすむ。

一方で、子どもはここで意思決定者でもある。何をつくり、どんなふうにするかは彼らが決めている。彼らが決めた「あなたの運勢」を、他者に伝えるリスクと快を両方負うことになっている。決して政治的な意志決定でないとしても、彼らは決定し、伝えることを、日常的に実践している主体であるようにも見える。主体としての子どもと、メディウムとしての子どもが同居している状態をつくりだしている。


アーティスト・イン・児童館2011山本高之プロジェクトを運営しながら、観客としてPort B《Referendum》を体験する。その間で、考えたこと。





2011/10/12

『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会

Port B『Referendum ー国民投票プロジェクト』オープニング集会に行ってきた。

去年『完全避難マニュアル 東京版』のスタッフをさせてもらっていたけれど、今年のPort B はまた違う。震災と原発の問題に端を発し、「政治」と向きあうプロジェクト。靖国神社の桜の木の下に埋まる死者の話と、一度も使われずに廃炉になったオーストリアのツヴェンテンドルフ原発の話でこの集会は幕をあけた。

「国民投票」あるいは「直接民主主義」という題材で質疑も血の気の多い感じだったし、豊島公会堂という会場の雰囲気もあったんだろうけど、運動の時代にスリップしたのかと思った。いや、本当に運動の時代に再び突入しているのかも知れない。

このプロジェクト約一ヶ月の期間中、東京と福島の中学生の「声」をあつめるキャラバンカーが、東京と福島の各所をめぐり、そこで昭和の、日本の夢の時代を生きた巨匠たちの話を聴くフォーラムを開き、観客にはある「投票」をさせる、という。まだなんだか分からないからこそ、体験してみたいと思うのは、「まだ生まれていない人たちと死んでしまった人たちの『声』を聞く」その方法の模索へと向かっているからだ。ハンス=ティース・レーマンの「政治の境界は"時間"である。政治が統治できるのは"生きているもの"だけ」という言葉に従って考えて、政治の統治の外側にいる人からも「声」を集めるための仕掛け、ということなのか?「"政治の時間に"まだ生まれていない人たち」の表象としての中学生なの?すると、死者を暗喩するものは?

わからないことだらけのこのプロジェクト、しかしこのオープニング集会は面白かった。ぼくがここで思い出していたのは、大学の授業で聞いた、古代ギリシャの直接民主制の議会の場の話だ。古代ギリシャの都市国家では、住民全員が広場に集まり、ある議題について大勢で叫び合うという場面があったそうだ。そこには意見を言う順番も何もなく、ひたすら怒号が響きあう。しかし、その広場の轟々とした"うねり"のトランスの中で、ある一つの合意へと向かっていく、というような話だった。クラブみたいだな、と思っていた。(うろおぼえ)

ぼくたちは個人でありながら、同時に複数の「声」を宿した身体である。(山本高之さんの《CHILDREN PRIDE》も、この視点で見ることができる)  なぜなら、いろんな人の意見や考えに影響されながら生きているし、それは他者の声を宿して生きることでもあるからだ。

キャラバンカーがいろんな「声」を拾い上げていくところまではなんとなく想像できる。インタビューやフォーラムというかたちで拾い上げられた「声」が集まり、古代ギリシャの広場とは違う、結論に至らない、変な形の"うねり"が、ウェブ上でテキストになって可視化されるんじゃないかなー、というのも期待している。そして更に楽しみなのは、きっと、観客や出演した人、個人の身体が変わるんだろうな、ということだ。宿していた「声」をシャッフルされたら、それは身体が変わるということだろう。これは自分で体験してみないと分からない。楽しみだ。