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2016/08/30

身体つき、言葉の停止、言葉の決壊 ー『100円の恋』を観た

安藤サクラを好きな友達が、安藤サクラがどうしても好きなんだという話を聞いてから、安藤サクラのことが気になっていて、なんか不意に時間ができたので『100円の恋』をネットフリックスで観てみた。ジャンルが前後半でガラリと変わる、最高の映画だった。

なんかもうトレイラーとか見ると全部ネタバレしちまってんじゃねえか!って感じがして、とにかく予告もあらすじも見ないで観ることを勧めるけど、映画の宣伝って難しいんだよな~といつも思う。

以下、ネタバレ。



==あらすじ==

32歳の一子(安藤サクラ)は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていた。
ある日離婚し、子連れで実家に帰ってきた妹の二三子と同居をはじめるが折り合いが悪くなり、しょうがなく家を出て一人暮らしを始める。夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありつくが、そこは底辺の人間たちの巣窟だった。
心に問題を抱えた店員たちとの生活を送る一子は、帰り道にあるボクシングジムで、一人でストイックに練習するボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することが唯一の楽しみとなっていた。
ある夜、そのボクサー・狩野が百円ショップに客としてやってくる。狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに2人の距離は縮めていく。なんとなく一緒に住み始め、体を重ねるうちに、一子の中で何かが変わり始める―――


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前半、「自堕落な生活」というときの安藤サクラの体型の半端ないルーズさ、猫背、二重あご、無気力で思考停止寸前の目つき。妹の二三子にいわれる「あんた親の年金狙ってんだろ、おめえみてぇなやつが平気で死体を埋めたりすんだよ!」というセリフにも、あ、確かにそういう感じかも、と思わせるような危うさ。この場合、親を殺すみたいな話じゃなくて、親が死んでしまった時にどうしていいかわからなくて埋めちゃう、みたいな話だなと僕は思った。

他人と共に生きることを諦めまくって、言葉を使って人に何かを伝えることをしていなさすぎて言葉が出てこない。親の死のような局面で他人がどうしているかを見たことがないから、考えることも工夫することもできない。猫背で、腰から落ちたような歩き方で、わがままで無気力。それでいていつも何かに怯えて肩に力が入っているような狭窄感。安藤サクラの演技っていうか身体つき自体をそうしちゃってる感じがすごい。

一子が働き始めた100円ショップの定員たちも、その狭窄感に拍車をかける。うつ病の店長の、なりたくてそうなったわけじゃない息苦しい真面目さ。働かないでしゃべってばかりいる粘着質な野間というおっさんのそれこそ思考停止したバカさ。

そんな中でも、一人暮らしを始め、働くことを続けていくと生活が回り始め、服や下着やテレビを少しずつ買い揃えていく様子が、明確にシーンとしては表現されないけれど画面の中にポツポツと現れ始める。その事に希望というか、明るさが見える。

新井浩文演じるボクサー・狩野の引退試合を見たこと、そしてその夜に野間に強姦されること(この強姦のシーンが、残酷で暴力的というより、とにかくセコすぎて軽がるしすぎて、もう最低だった)、別の日に酔いつぶれて100円ショップにきた狩野を介抱したこと、狩野が別の女のところに行ってしまうことなどが重なっていき、複雑になっていく生活とは裏腹に、一子はシンプルに、ボクシングにのめり込んでいく。

働き始めたばかりのときにレジ打ちをおぼえようとする様子と、ボクシングを習い始めたばかりのころにジャブをおぼえようとする様子のたどたどしさが同じな感じとかも、よかったな~。ジャブって、脇を締めたり腰を入れたり鋭くまっすぐ打ち込む意識をしながら、同時にガードも意識しなきゃいけなくて、単純に見えていろんなことを同時にこなさなければならない。ちょっと前まで思考停止寸前だった一子には、それは複雑で難しい。だが狩野とのことや野間とのことなど、生活の中で複雑でわからないことを食らううちに、ステップ、ジャブ、ダッキング、ボディ、フックがシンプルにつながっていく。

この、中盤の、映画自体のジャンルが変わっちゃう怒涛のギアチェンジに痺れた。その感じ、予想してませんでした。ボテボテの体つきから次第に切れ味の増していく安藤サクラのシャドーボクシングの加速感はもう最高でビリビリくる。

最後、プロテストに合格した一子は、幸運もあって4回戦の試合に出る。試合前に短く切った髪の毛をかきあげるとき、切れ長の目がすごくカッコよくて美しくてハッとする。切れ味最高のシャドーボクシングをいっぱい見せられたぼくは「これはいけるんじゃないか」と思ってしまったが、試合の相手は強そうで、一子のパンチは全然当たらない。冷静さの欠片もなく相手の事もまっすぐに見つめられず、ただただ呼吸を荒げて闇雲にバタバタし、コーナーに帰ってきたときには白目をむいてまともに言葉もでてこないグロテスクな一子の表情。そのなかに、ときどきめちゃくちゃ美しい表情が帰ってくる瞬間があって、これまたハッとする。3ラウンドめの、一矢報いるあのボディからの左フック、からの相手のブーメランフック、、、あ~!!!っていう。

試合が終わって、着替えて、ボロボロの顔を鏡で見て、階段をおりたところに試合を見に来ていた狩野がいて、呼吸を荒げて泣きながら何かを必死で言うんだけど、何を言ってるのかもうわからなくて、たぶんそれが「一度ぐらい勝ちたかった」なんだろうなというぐらいの感じで、狩野に手を引かれて泣きながら歩いていく。体つきもだるだるで言葉もまともにでてこないくらい思考も感情も停止しかかっていた一子は最後、シャープに仕上がった体で、好きな人に会って感情も思考も追いつかないぐらいグルグル回って言葉もまともに出てこなくなる。前後半の対比がめちゃくちゃ美しい映画だった。

安藤サクラが出ている映画ってまともにみたことなかったけど、目つき、身体つき、仕草が、見ている観客の気持ちをのりうつらせるような魅力のある人だと思った。卑近なルーズさを持っているのだけど、同時に遠くて追いつけないような美しさを見せる感じ。映画も小説も、主人公に憑依するような感覚で見られるのが最高だと思うんだけど、それを実現している役者安藤サクラすごかった。


ボクシング映画として『クリード』のような試合の臨場感だったし、女性がギリギリの闘いに挑みながらもギリギリで敗れるという点でマリオン・コティヤールの『サンドラの週末』を思い出した。

2016/08/18

空間を読む、作る、身体知 ー『TOKYOインテリアツアー』

前回のブログで「トラブルを抱える建築と向き合う」みたいなことについて考えていて、まぁそれを実践できているかはわからないのだけど、空間の手入れをすることで体も空間も生きてくる、みたいな話かなぁと思う。部屋が乱れてくると空間が帯びる雑味が身体に憑依してきて、体つきがルーズになることって、ある。 

自分の部屋は美しくも汚くもなくて、まだ食器棚や本棚も満足にそろえていないようなスカスカな感じなのだけど、ぼくはなぜか昔から空間の話をしたり聞いたりしていると元気がでてくる。それはきっと幼稚園の頃、ウレタンと木のブロックで壁をつくり、天板を渡して二階建ての建物をつくるのが大好きだったという経験に由来しているような気がする。それは自分で作った空間でゴロゴロしたり上り下りしたりすることができて、たいそう自由な気持ちだった。今でも空間のレイアウトをどうしようかと人と話し合うときや、配置を変えてバシッと決まった感があるときはすごく元気になる。 

『TOKYOインテリアツアー』刊行記念イベント「建築とインテリアの邂逅」


幸いにも、最近インテリアデザイナーの安藤僚子さんとお仕事をさせてもらっていて空間のプロフェッショナルからたくさん話を聞ける。そして、そのつながりもあって先月末に『TOKYOインテリアツアー』という書籍の刊行記念イベントに行ってきた。安藤さんと、共著者の浅子佳英さん、ゲストに建築家の中山英之さんを交えたトークは、あらゆるものを引用してつくる「編集型インテリアデザイン」の話から、原宿の東急プラザの話になって、外と内が緩やかに交わる建築とインテリアの邂逅の話になり、基準階型の建築(学校みたいにグリットで区切られた建築)は人の自由を奪うから、基準階型の建築をインテリアがハックして自由をつくりだしていくのが面白い、みたいな話の流れだった(要約雑)。最後のインテリアによって貧しい空間をハックして自由にする、という話は賛同!賛同!と思いながら聞いていた。

ぼくもインテリアツアーをしてみた。最初に東急プラザへ。
 とにかくお三方とも素材の名前から建築家やデザイナーの名前がポンポン出てきて、素材から配置の仕方、その歴史性など、空間のプロフェッショナルからしたら当たり前のことなのだろうけど、空間についてなんと多角的に思考しているんだとあっけにとられた。

入り口の鏡は、えげつないデザインだなぁと思っていたけれど、入ってみると風景のコラージュが面白い。
なにより(これも建築家やインテリアデザイナーからしたら当たり前だと思うのだが)、彼らは「空間は作ることができる」と思って世界を眼差している。多くの人はきっとそんなふうには思っていない。スーモを見たり不動産屋に行ったりして部屋を選んだりはするものの、空間を作るというアイデアを持っている人は、多くはないだろう。

空間を作る人の身体知みたいなもの 

「楽器を演奏した経験がある人の方が、音楽を聴いたときに脳の聴覚野が活性化する」という話があって、空間についても、きっと同じことが言える。空間を自分で作ったことがある人のほうが作ったことのない人に比べて、空間を知覚し、言語化し、自分に最適化できるように編集する力が長けていると思う。空間にしても音楽にしても、「作る経験」はきっと「よい身体」をつくるのだろう。そんなわけで、「作る経験」を積み、「良い身体」に仕上がってきている建築家やデザイナーの身体知みたいなものに興味がある。

その身体知とはなにか。とりわけ空間をつくるための身体知について、ちょっと仮に考えてみる。 ひとつは空間の文脈の読み解き方。この空間がどんな物語を持った場所なのか、ということを感じ取り言語化もしくはデザインに落とし込む感覚というのはどういうものなのだろうか。

続いて、素材の選び方。先のトークのなかで様々なインテリアの事例が紹介されたが、それぞれそこで使われている素材には必然性というかドラマツルギーがあるように感じた。この空間はこういう物語をもった場所だから、この素材が合う、という勘はどう働くのか。

そして、空間の形の決め方。空間の持つ文脈を読み解きながら新しく作り変えるとき、どんなふうに空間のかたちをつくっていくのか。特に内装の場合、ラグジュアリーに飾り付けるだけでなく、機能性も兼ね備えなければならない。その決め手はどう見つけていくのか。

さらには素材の買い方、揃え方。建材屋や繊維メーカーとのコネクション、あるいは廃材など安価な材料などを集めるルートをどうやって開拓しているのか。一般の市場には出回らないような素材にどうやってアクセスしているのか。 

次に、素材の加工の仕方。木材から金属、化学繊維までそれぞれに加工のための道具があるのだと思うが、どんな道具でどんな加工をすれば、イメージするかたちに変わっていくのか。素材の硬さなど特性、道具の得意なこと不得意なことを良く知っていればいるほど、加工の幅が広がるのだろう。 

なんかこういうのを単に「デザイナーのノウハウ」とか「仕事術」って言っちゃうと大事なことを見落としてしまう気がしている。こういうノウハウをどうやって身体に染み込ませているのか、というところが気になる。それは、「仕事をしていくうちに身につけた」とか「現場で培った」と言われてしまえばそれまでだし、何よりそんなおいそれと簡単に、誰でも身につくモノではないと思う。ただ、その限界を知りながら、限界まで言語化し、共有することを務めるのが、ワークショップを考える人間の1つの役割なのではないかと、最近考えている。

2016/07/04

トラブル、建築、暮らし ーシンポジウム「『犬のための建築』をめぐって」を聴いた

先月から引っ越しをして一人暮らしを始めた。28歳で初めての一人暮らしという恥ずかしい感じではあるのだが、駅から少し遠いけれどリビングと寝室を分けて使えるぐらいの感じで、日当たりがとにかくいい。飲みに行く予定がないときは料理も作っているし、掃除も洗濯も、いまのところ問題なくできている。


暮らしていると、生ゴミの臭いが気になったり、日当たりがいいがゆえに部屋に熱がこもってしまったり、小さい問題が起こる。柔軟剤の匂いがなかなか気に入らなかったり、新しい炊飯器のご飯がいつもちょっと固めになってしまったり。これまで実家暮らしだったので、こういう小さい問題は家族が気にならないようにしてくれていたのだということを思い知る。だが、それを細かくケアしていくことで生活が楽しくなっていく。(いろいろ物を買いたくなるので出費はかさむが


これまでは家事をしながら好きに音楽を流したり、ラジオを聴いたりすることができなかったけれど、今はそれができる。今まではTBSラジオのPodcastで「session22」とか「ウィークエンドシャッフル」とか聞いていたのだけど、TBSラジオのPodcast7月にはいって終了してしまい、それができなくなってしまったので、最近ハマっているのは「TOTObunka」というチャンネル。TOTO出版で企画されたいろんな建築家の講演が無料で聞けるので、これを聞いている。はじめに聞いたのはこの「犬のための建築をめぐって」という3年前のシンポジウム。

原研哉さんが中心になって立ち上げた「犬のための建築 ARCHITECTURE FOR DOGS 」というプロジェクトについてのシンポジウムで、犬と建築の話だけでなく、建築家がマカロニを設計するという考え方の話や、2013年の「HOUSE VISION」の話もでてきて、原研哉さんという人のスタンスがよく分かる内容。著書『デザインのデザイン 』は高校生の頃に読んだのもあったがインパクトの大きな本だったし、これまでに何度も読み返している。原研哉さんの仕事ぶりは、10年経てさらに進化してる。

「建築というものは、快適に暮らすことだけではなく、抱え込んだトラブルそれ自体が人間を元気にする」というのはこの中で話題になっていて面白いなぁと思った言葉。ぼくが借りたアパートは、もちろん快適に暮らすように設計されているし、現にいまのところはとても快適だ。半分冗談で言っていたようなところはあるのだが、原研哉さんが言っているのは、名だたる建築家が設計した家に暮らす人のことで、「コンクリートむき出しの地下室はジメジメして湿気て大変で、まるで象を飼っているようだというのだが、そういうトラブルを抱えながら嬉々として暮らしている」という。そうやって"建築と付き合う"ことが、人を元気にするんじゃないか、ということだった。

ぼくもなんとなく1ヶ月ぐらい暮らしてみて思うのは、こういうトラブルに対応する手法のなかに、様々な知恵が生きていることだ。大きめのゴザをつかって日光を遮ることで部屋の温度をさげること、シャワーをしたあとに軽く冷水を浴室に撒いておくと浴室の温度が下がってカビにくいこと、生ぐさくならないためのシンクの掃除の仕方などなど、暮らしてみて見えてくるディティールがたくさんあって、ああこういう日常的な実践の中にデザインがあるのだなぁと思う。

ぼくの美的センスがポンコツでクタクタなので、こういったシンポジウムを聴いたり展示を見たりしてもセンスがよくなることはこれまでなかったのだが、ポンコツならポンコツなりに実践できる日常のデザインというものがありそうだ、と、家事をしながら音声を聞きながら思った。


ちなみに、今年の夏に「HOUSE VISION」の新しい展覧会があるみたい。三越伊勢丹やairbnbの名前が並んでいて、気になる!http://house-vision.jp/exhibition/

2016/05/23

汚さ、祈り、物語のグルーヴ ー絲山秋子『ダーティ・ワーク』を読んだ

このあいだMother Terecoのスタジオに遊びに行ったとき、厚木までの小田急線で読もうと思って絲山秋子さんの『ダーティ・ワーク (集英社文庫) 』を買った。絲山さんの作品は学生の頃に『沖で待つ 』を読んで衝撃を受けて、ゼミ旅行で高崎に行ったときにご本人に一度だけお目にかかったことがある。そのとき、佇まいの背景にすっと通った筋と柔らかさみたいなものを感じて、言葉を扱い、物語を綴る人の佇まいのただならぬ感じに驚いた。


さて、この『ダーティ・ワーク』は、20代後半~30代の若者たちの人生がささやかに語られた群像劇なのだが、ん~!まずなにより前提知識なしで100%まっさらな状態で読んでほしい。なんのことだかわからないで読み始めたほうが、のめりこめると思うし、確実に面白いのでまずもって間違いなしです。面白くておもわず連続で3回読んで、それぞれ別々のシーンで鳥肌が立ち、目頭が熱くなった。

で、ここからはネタバレしながら書いていきます。

まず、あらすじ。『ダーティ・ワーク』文庫のリードを引用。

ギタリストの熊井望は、自分をもてあましながら28年間生きてきた。音楽以外に興味はなく、唯一思いを寄せるのは昔の友人。自分の分身のようにかけがえのない存在だったが、今はもう会えない。彼女が取り返しのつかないことをしてしまったから。様々に繋がる人間関係から見えてくる、ささやかな希望。ローリング・ストーンズにのせておくる、不器用な若者たちのもどかしくも胸に迫る物語。

ってこの文章!「様々に繋がる人間関係」とかネタバレだし、熊井が「昔の友人に取り返しのつかないことをした、、、」みたいなのだけが物語の骨子じゃないから!と思わずつっこみたくなった。こんな、現代の若者を描いたありがちな小説とかじゃないから!って言いたいんだけど、じゃあなんなのかというと言葉が見つからない

全部で7つの章からなるこの小説は、第1~3章までは、それぞれ独立した短編小説なのかな?って感じなのだが、第4章以降にだんだんとつながっていく。え、この人物とこの人物は過去に接点があったのか、とか、あ!この人ってこの人だったのか!とか。いや、冷静に考えたら、「オムニバスに見えて実は全部繋がってました系」の物語って、もはやそういうジャンルもので、この世にはごまんとある。しかし、『ダーティ・ワーク』の場合この構成があまりにも緻密で、多分このジャンルの中でもずば抜けて最高なのだと思う。もうこの緻密さの美しさだけで泣ける。

この物語を読んでいてしみじみといいなぁと思うのは、人称の変化だ。最初は「熊井はをした」という感じで三人称でひたすら語られていく。しかし章が進むにつれて、ほとんど前触れもなく会話の応酬のなかで一人称になったり、いきなり三人称にぐいっと戻ったりするし、かと思えばラストの章は「ですます調」の慎ましやかな一人称の語りで結ばれる。絲山さんの文体の特徴なのかもしれないけれど、状況描写からするりと会話のシーンには入るとき鉤括弧が使われないことがある。語り部と登場人物が同じグルーヴを共有しながら語ったり語られたりしてて、なんとも軽やかでここちいい文体だ。ローリングストーンズの曲のタイトルが各章のタイトルになっているし登場人物が音楽に関心を寄せているのも、納得がいく。

そして、何よりぼくが好きだったのは、この小説に散りばめられた、あっと驚くような突き抜けた表現のうまさだ。いくつか好きなシーンを引用させてください。

牛遊びしない?
なんですか、それ。
形容詞プラス牛。
えー、楽しい牛とかですか。
そうそう、いかがわしい牛。
悩ましい牛。
おびただしい牛。
小汚い牛。
おどろおどろしい牛。
輝かしい牛。
せちがらい牛。
思ったよりずっとその遊びは楽しくて、長く続いた。単調だけど、シーソーをしているみたい。いろんな牛が私の心に遊びに来て、いろんな顔をして去っていく。想像できない顔の牛が面白い。
(p.63~64 sympathy for the devil

「だってよう」
美雪は視線をそらした。
「だって何だよ」
「恥ずかしいもの」
そう言うと、床に正座した。自分のペースを失って、どうしていいかわからない彼女の様子がいじらしく思えた。
(p.79 moonlight mile)

母親は牛というよりも鹿に似ていた。父親は色白で、顔の表情がどことなくシュウマイに似ていた。しかしここでお父さんはシュウマイに似ていますね、などと言ったらどうなることだろう。
遠井が見舞いの言葉を選ぼうとしているうちに、彼女が話し始めた。最近の調子のこと。毎日違う症状が出て不安なこと。疼痛。骨盤の中を微生物が走るような感触、嘔吐、発熱、そして入院してから片時も離れない血管痛。
(p.80~81 moonlight mile)

「わざとらしくなかったか?」
「あんなに苦しんでるのにわざとらしいなんて思わないよ」
色っぽかったなんて言ったらまたティッシュの箱が飛んで来るだろう。
(p.95 moonlight mile)

もっと治れ、もっと根本的に治れ、彼は思う。彼女の腫瘍と一緒に自分の心配が消えうせるように、と彼は念じる。眠る牛にむかって念を送る。
(p.103 moonlight mile)

「辻森さんてさ」
「なんだよ」
「妖怪に似てるよね」
やっと笑った。
にゅいーんと笑った。
「なに妖怪だよ」
「レイキャビクマン」
「なんだよそりゃあ」
また笑った。
「すごく冷たいの。人を凍死させちゃう」
あと、花を食べて生きるの。
「ばーか、あったかいんだよ」
いきなり、ほっぺたが変形するほどべたーっと手を押し付けられた。
あったかい。
それに、がさがさしてる。
全然見た目と違った。
間違いを知るのがこんなに甘やかだなんて。
(p.144~p.145 miss you)

それは初秋の、一番美しい時間でした。傾いた日が、全ての色を少しずつ変えて行く、光に照らされたものだけが残り、見たくないものがだんだんに色を失っていく瞬間でした。
(p.196 beast of burden)

これを書いている間にまた読み返して鳥肌が立ってしまった・・・。引用だけではもちろん伝わらなくて、前後の文脈があってはじめてこの表現が強烈に輝くんだけど、素朴な言葉でありながらえぐってくる。

そうそう、この小説に出てくる登場人物は、誰も完璧じゃなくて、不謹慎なことを考えたり、あさましかったり、不健康だったり、嘘つきだったりする。そんなスレた感情を抱えた人間、つまりどこにでもいる人間に、物語のグルーヴがささやかに何かを祈ったり、美しい瞬間を見つけて驚いたりするシーンを運んできて、ぼくら読者は物語を読みながらその祈りや美に出会っていく。しかもその祈りとか美しさは、それを抱いた人が抱える不謹慎さや浅ましさと混然一体だからこそ独特だ。読み終わった瞬間にApple Musicでローリングストーンズの「Beast of Burden」を検索してかけて、それを聞きながら、『ダーティ・ワーク』という題の意味とは、人間のどこにでもある汚さと祈りのことなのかもなとぼんやり思ったら20~30分ぐらい鳥肌が止まらなかった。



はい、とにかく絲山秋子『ダーティ・ワーク』最高でした、という内容を、これから引越しをする本八幡に向かう電車の中で、つらつらと書き連ねていたのでした。

2016/05/02

幸せ、日陰、闘い ー酒井順子『子の無い人生』を読んだ。

TBSラジオの『荻上チキ・session-22』をPodcastで聞きながら電車で通勤するのが僕の日課なのだけど、4月5日の「session袋とじ」のコーナーで、酒井順子さんの『子の無い人生 』という本が紹介されていた。ラジオを聞いて、「子どもがいない私は誰に看取られる?」という痛烈な問いとか、「子育て右翼」という興味深い見立てとかを聞いているうちに、この本をなんだか読まなければいけない気がして、amazonで注文した。


"酒井順子、はたと気づく。独身で子供がいない私は、誰に看取られる?『負け犬の遠吠え』から12年、未婚未産の酒井順子の今とこれから。30代は既婚女性と未婚女性の間に大きな壁がありました。結婚していなければ単なる「負け犬」と思っていた酒井順子は、40代になり悟ります。人生を左右するのは「結婚しているか、いないか」ではない、「子供がいるか、いないか」なんだと。期せずして子の無い人生を歩む著者が、ママ社会、世間の目、自身の老後から沖縄の墓事情まで、子がいないことで生じるあれこれを真正面から斬る!" (amazon内容紹介より) 


この本のトピックはなんだかとてもデリケートに感じられて、ヒリヒリしながら読み進めた。ホームパーティーでの専業主婦の人たちの、子どもがいない人たちへの無自覚な哀れみがにじみ出た言葉を聞いたことや、子どもがそんなに好きじゃないという酒井さんの気持ちの吐露から始まり、子育てと政治、子どもがいない女性が死んだ時にどうなるかについてのフィールドワークなど、話題は多岐に及ぶ。とりわけ、子育てと政治の話と、沖縄のトートーメーについての話、そして「1人で死ぬこと」についての話などは興味深く読んだ。

トートーメーとは、沖縄の位牌で、個人や夫婦の戒名ではなく、先祖代々の戒名が位牌札というものに記されて収められているものだそうで、いわば「集合住宅のような感じ」とのこと。本の中では、このトートーメーには、バツゼロ独身の人は入れないとか。

タイトルを一見した時は、子どもがいないことに対する個人の気持ちを吐露するエッセイなのかなと思ったのだが、そうではなく、子どもがいないと死んだ時にどうなるのかという文化人類学的なアプローチでのリサーチだとか、子育てと政治の関係だとか、社会学的な内容も多くて面白い。さらには、そこに乗せられた酒井さんの実感が、この本を読んでいるときのヒリヒリしたりグサリと刺さる感じだったりを作り出しているんだと思う。

ぼくも日々facebookやinstagramを見ていて、知人友人の子どもの写真や映像を見ていて、元気が出たりほっこりしたりすることももちろんある。この溢れる子どもの映像には「子どもがいることこそが最上の幸せで、わたし(たち)は今その最高の幸せのなかにいます」ということが現れている気がするし、ぼくはその幸せに感染したがるように日々映像を吸っている。もちろん、その裏に尋常じゃない苦労があることも、精一杯想像しながら。ただ、その一方で、それが最上の幸せなんだというイメージが滲んでくると、そうではない人生は不幸なんだという機運も滲んできている気がする。それは別に今に始まったことじゃないかもしれないけれど、SNSは幸せを可視化してその幸せへの憧れを増強する仕組みをもっていて、そうではない人生をゆるやかに、やわらかく日陰にしていくような感じがある。

酒井さんはその日陰に生きる人を「負け犬」といい、自らを「負け犬」と定義して、その日陰から物語る。「結婚して子育てをするのが幸せ」という考え方だけが正しいわけじゃない、というのは頭ではよくわかっているが、その幸せの道を歩みたいと思っている人はたくさんいるわけで、ぼくもそうだ。それが幸せだというのはよくわかる。だがこの本からは、そうではない結果になっている人たち(結婚していない、子どもがいない)が不幸かというとそうではないだろう!と静かに闘う姿勢を感じた。今を生きる人々が多くの選択肢のなかで生きられるように、闘っている本だと思った。






2016/04/26

音に触れる、音をかたどる ーMother Terecoスタジオにて

今日は音楽ユニット「Mother Tereco」のスタジオに遊びに、本厚木に行ってきた。Mother Terecoは先日の絹代さんの舞台『GIFTED』でも音楽を担当していた電子音楽のユニットで、メンバーの難波くん、佐藤くんの2人はFORM ON WORDSが水戸でショーをやったときからお世話になっている尊敬するクリエイターであり、友人である。


車で颯爽とあらわれた2人は、天気がいいからってことで厚木の面白スポット「宮ヶ瀬ダム」に連れて行ってくれた。スパイ映画のロケーションで使われそうなインダストリアルな感じと、のどかな風景とがあいまって最高だったので、ダムを上からも下からも見た。


スタジオでは、Mother Terecoのシンボル的存在でもある「モジュラーシンセサイザー」の仕組みを見せてもらった。シンセサイザーって、キーボードにいろんなツマミがついてるやつ、ぐらいの認識しかなかったのだけど、そうじゃないだね。音の波形を変えることで、音を形作ることができて、それでメロディも作れるし、波形の変化だけで展開をつくることもできたりする。ぼくが野暮な説明をするよりわかりやすいサイトがあったのでこれ見てみてください。

最近ぼくが「触感」をテーマにしたワークショップを作っているっていうのもあって、音の波形を操作することで「プチプチ」とか「ふわーん」とか「ジュルジュル」とか、柔らかさや硬さ、液体感や鋭利な感じなど、いろんな音の質感をつくることができる、というのは単純だけど驚きがあった。電子音でメロディやビートをつくってシンセサイザーで音の質感を操作して…みたいなのが電子音楽だ、というのは簡素すぎる説明かもしれないけれど、Mother Terecoはここの波形の操作をより高解像度でいじっていて、手の巧緻性が音の質感の変化にダイレクトに影響するような音作りをしているし、そこにバイオリンなどの生楽器の音を組み込んでいて、音の幅を広げた演奏をしている。藤田陽介さんや、マイカ・ルブテさんとコラボレーションをしたりとか、活躍も目覚ましい。


電子音楽の歴史の話も面白かったし、そこから派生したアフリカンデスメタルとかKonono no.1とかの話も面白かったし、楽しかったのはもちろんなんだけど、何より「電子音を作ること」を自分でももう少しやってみたい、と思った。音楽は作れなくても、音を作って遊ぶことならなんかできそう!という感じを覚えた。まあ何かに影響されるとすぐそう思いがちなんだが、どう手を伸ばして、実際に触れられるものを身近に置いておくかなんだわな。なんか身近に手に入れられる道具ないかな。

難波くん行きつけの「酔笑苑」の炭火焼はどれも最高だったし、牛タン赤身刺しは最高のローフードだった。

ぼくは、音楽とファッションは苦手な分野だと思っていた、というのはどっかに書いたことがある気がする。映画とか小説は起きていることの順番をたどればその構成がわかるし、作り手の動機もなんとなく感じられるけど、音楽とかファッションは自分ではそれがわかんなくて、自分がわかんないっていうことが恥ずかしくて「なんかいけすかねえ!」みたいに思うことで自己保身してた。でも、縁があってこうしてクリエイターと関わってみて、自分もワークショップという手段で自分なりの動機を持って構成をしていく仕事を通して、作り手と歩み寄ることができて、はじめて音楽やファッションやその他の分野の面白さがわかってきた気がする。自分の家にミシンとシーケンサーが欲しい。

*関連する記事はこれ

2016/03/28

劇中劇中劇、お遊戯、事実 ー三月企画『GIFTED』を観た

劇団「ファイファイ」の野上絹代さんが、新しく「三月企画」というプロジェクトをはじめた。その旗揚げ公演である『GIFTED』を観てきた。http://www.kinuyo-marchproject.info/



絹代さんとは2012年にアーティスト・イン・児童館でファイファイを呼んで『Y時のはなし』の公演をやってもらった時からの付き合いがあって、2014年には水戸芸術館「拡張するファッション」やアーツ前橋「服の記憶」といった展覧会でFORM ON WORDSのファッションショーの構成・振り付けをしてもらった。いまのココイクの仕事でもお世話になった。尊敬する姉のような人だと思っている。今回の公演『GIFTED』では、ファッションショーの音楽を作ってもらったmother terecoが音楽を担当していたし、彼らの仕事と「ビッグバン」っぷりが見事だった。

演劇は普段なかなか見に行けないけど、見るのが好きだ。目の前の生身の人間が、あることをないことにしたり、ないことをあることにしたりして次々とイリュージョンさせて別の世界を立ち上げちゃうんだけど、触れようと思ったら触れられる身体や声はやっぱり目の前にある。目の前で巻き起こる言葉や声や歌や音がグルーヴして、観客のきもちがごちゃ混ぜになっていく。そういう感じの演劇を見るのが好きだ。

『GIFTED』は「時間はちょっとしたことで操れちゃう」という話から始まり、序盤では、絹代さん自身や役者の方々のプライベートな経験なのかもなと思われることがポツリポツリと語られる。小さな男の子を育てていて、同時に親の介護に週に一回行っていること。3人の子どもは家を出ていて、夫は7年前に先立ったこと。

子どもたちが通う保育園のシーンでは、卒園式のお遊戯会の練習をしていて自意識の高すぎる男の若い先生が子どもたちの演技に納得がいかず「やりきりたい」と言う。介護施設ではおばあちゃんの記憶のが朦朧としていて、子どもや夫との思い出が語られる。

本人と思われる語りからはじまって、保育士、子ども、母親、ママ友、おばあさん、介護士と役者はめまぐるしく役を入れ替えて演じていく。はじめは役を着ていない個人として語り、子どもの役をやり、親の役をやり、高齢者の役をやり、子どもの役の中で魚や動物の役をやり、その切り替わりのドタバタ感が可笑しくて可愛い。とくに子どもと母親のやり取りは、役者自身の経験の再現だろうなーと感じるし、それをプロの役者がやるものだから描写が細かくて楽しい。

お遊戯会や記憶の再現など、劇中でいくつも劇が繰り広げられ、役者は2重3重に役を装う。事実から始まり、劇になり、劇中劇になって、そのまた劇中劇みたいになっていく感じ。そのめまぐるしさがきもちいい。

クライマックス。子どもたちの卒園式のお遊戯会の演目を決めきれずにいた保育園の先生が、げっそりした顔で「浦島太郎はやらず、宇宙のはじまり、ビッグバンをやります」と言いはじめる。「今あるものが全部ないのがビッグバン以前です。そのために、みんなのことをなくしてみせます!」みたいなことを言って、子どものお絵かきのような絵を使ってタイムスリップが描かれ、戦争から江戸時代、原始時代から恐竜の時代へと遡っていく。その中で漂う女の子が、声や、音の裂け目を発見して、ないものからあるものが見つけられていく。

ありったけのエネルギーを使い、絶妙に微妙な手作り小道具を使い、これまた絶妙にダサいダンスがあり(これが最高すぎた)、大人が全力で大声を張り上げながらビッグバンをお遊戯していて、それがはじけた後、それはみんなそれぞれに事情や生活をもった個人なんだってところに還っていく。

過去の経験や記憶、お遊戯が媒介になって、嘘と本当とがごちゃ混ぜになって、今この時代を生きてるっていう事実が、今目の前で演劇になっているんだなぁと感じた。

そうそう、『GIFTED』を見て感じたのは、演者が観客に向けてなにかを物語る手法として演劇があるというよりは、演者も観客も含めてそこに集う人々の経験をごちゃ混ぜにして今ある事実とか生を肯定するものとして演劇がある。みたいなことだった。こういうの、なんていう概念なんだろう。

こんなふうに役者の個人的な経験が反映されまくるものって、好みは分かれるかもしれないけれど、この作品の世界への肯定感がぼくは大好きだったしずっと笑ってたし、ラストのラストでみんながある言葉を慟哭する場面は泣いた。

そっか、役者の人たちが客入れのときから舞台上でリラックスした感じで話をしたりストレッチしたりしてたのは、最初は役を着ていない本人のありさまを舞台の上で見せていたという事なのかもしれない。最後まで大声を張り上げながらグルーヴしていたのも何重にも役を着たり抜いだりしている個人で、その全部脱いだ時にのこるものがGIFTEDなのかもなとか思ったり思わなかったりしてこの辺から感想がぐだるのでこの辺にしとく!

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