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2015/12/30

落ち着きと解像度 ー27 歳最後の投稿

28歳が足音をたてて近づいてくるところで、年末はカウントダウンが二つあるんだよな〜と思いながらキーボードを叩く。大晦日が誕生日で「慌ただしい日に生まれましたね〜」とよく言われるのだけど、そのせいかそそっかしい人間になったものだと思う。

何かまとめたいことがあるわけじゃないけれど、年末なのでぼーっと今年のことを振り返ると、仕事の仕方が大きく変わって、考え方もいろいろ変わった。来年は結婚もするし、引越しもする。年明けには独身最後ってことで一人アメリカ旅行もする。自分のことを大事にしなければ、と思ったのは2年ぐらい前で、正直つらい時期だった。とにかく大学生からそそっかしく生きてきて、その時期のことはまだ片付いていないのだけれど、ようやく落ち着いて考えられるようになってきた。

「落ち着く」ってどういうことかって、つまらなくなったり退屈になったりすることではないと思う。「落ち着く」とは、冷静に慌てずに判断ができるようになることと、偶然性を楽しめるようになることの2つだと思う。落ち着きがなくては冷静さはないし、「こうしなきゃ」みたいなことに縛られていると偶然の美に気付くことができない。例えば、道を歩いてていて珍しい植物や虫を見つけてその名前を呼んで喜べる人はとても落ち着いているなぁと思う。あとお茶が好きな人も。

前にフランク・ゲーリーの展覧会について「高圧力・高解像度」のことを書いたけれど、有限な時間のなかで世界を高解像度で眺め、高圧力で何かを生み出すには、落ち着きが欠かせない。今年は同僚に教わったヨガの太陽礼拝というのを毎朝地道に続けたり、運動をマメにやったりして、フィジカルに落ち着くことをコツコツやってきたつもりだ。そしてそれはまたしつこく続けて行こうと思う。

年をまたいで人が変わるわけではないけれど、落ち着きを纏うことと、そうして解像度が上がってきた視界が捉えるものを、ちょっとづつ圧力をあげて(一見余計な)提案をしていくのが目指すところです。来年もまたよろしくお願いします。

*関連する記事はこれ
執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫
形、中身、神



2015/12/10

執念、圧力、解像度 ー村上隆、フランク・ゲーリー、赤塚不二夫

今日は珍しく、展覧会巡りをした。「休日」というものを「とにかく休める日(何もしないでダラダラする日)」にするのではなく、「好きなことだけをする日」というのに

最初は森美術館《村上隆の五百羅漢図展》。話題になっているしツイッターやフェイスブックでCMがバンバンながれてくる力の入りよう。客層は年配の方も多く、仏教関係の方もちらほら見かけた。


メインの五百羅漢図に対して、おばちゃまたちが「一体何人いるのかしらねえ?」「あら〜これがやっぱり玄武なの、そぉ〜」とコメントを寄せているのを見ると、仏教美術の展覧会として、あるいは観光地でお寺にいくような感覚でここに来ているんだなぁ。ぼくは仏教美術はほとんど関心をもってこなかったし、「羅漢」の意味も会場で知ったほど無知なのだけど、とにかく感じたのは執念だった。

それは異様なデカさと手の混みようで、絵の具を塗りたくっているはずなのにつるっとしていて、コンピューターでつくったデジタル感がある。村上隆という執念に燃え、猛り狂うコンプレックスの炎が、「今この時代に必要な芸術」という大きな目標をもち、大きな組織を動かしながら生み出した五百羅漢図。その制作資料の展示を見ると「指示書通りやれ!ボケ!」と書かれたり「程度が低い!」という罵倒の言葉。「村上様からの指示書」というラベル。200人規模の管理生産体制は、絵師集団というか民主的とかそういうんじゃない厳つさがあった。そういう背景と、村上隆の執念と、絵の迫力とをあわせて、宗教と芸術がこの日本でまた新しく混在していっているんだなという、大きな力のうねりを体験した。

強い力を浴びてぷはぁと思いながら、ずいぶん前にFAIFAIの文美さんに教えてもらったFREY'Sのピザを食べて美味しいコーヒーを飲んで休憩。次に見に行ったのは21_21 DESIGN SIGHTの《建築家フランク・ゲーリー展》。


原宿のエスパス・ルイヴィトン《フランク・ゲーリー/ Frank Gehry パリ - フォンダシオン ルイ・ヴィトン 建築展》を先々週くらいに見ていたので、もっと大きな展示なら楽しみだ〜と思って行った。なにより今回の技術監修を、オランダに行った際にお世話になったLUFTZUGの遠藤豊さんがやっているというのだから期待は大きかった。そしてその期待をはるかに超える、もう最高に楽しい展覧会だった。

冒頭は、フランク・ゲーリーの建築を内側から撮影した映像がぐるりと観客を囲うプロジェクション。「私は建築を内側から考えるのだよ」とゲーリー本人がいうところの、その内側から始まる。ほあ〜と見てしまった。撮影はLUFTZUGだった。

次に、フランク・ゲーリーの自宅の模型と、彼のマニュフェスト。「それが厄介だ」でおわるあたりがとても可愛いマニュフェストだ。


メインの展示室には、これまで手がけたプロジェクトの模型が、段階別に展示され、キャプションが施されている。ここがもう本当に楽しかった。

ねちこく、幾つも模型をつくる。考えて作って考えてつくってを途方もないほど繰り返す。普通だったら諦めたり「もうこんでいいや」ってなるところ、ならない。自分のアイデアを気に入って、嫌いになってを繰り返し、施行されて現実のものになった建築が自分の予想を越えながら、「ああすればよかった」が幾度も出てきて嫌いになるそうだ。そんな感情の抑揚と、模型と、プロジェクトの進行過程がリンクする展示構成もう見事。

これだけだと「天才って努力しててすごいね」ってはなしで終わりそうなのだが、天才たる所以は独創性だけでなくその設計手法にあった。「ゲーリー・テクノロジー」に関する映像はぜひ最初から最後まで見てほしい。独創的な造形だけでなく、人々が空間を経験することへの敬意、そして設計手法の合理化とコラボレーションの上質さ、楽しすぎて泣きそうになった。

あと気になったのは、ゲーリーが支援して立ち上がったという「Turnaround Arts」というプロジェクト。アーティストが学校にいく、というのは世界中にあると思うけれど、行政と民間企業とがタイアップして、大掛かりに展開しているみたい。

村上隆もフランク・ゲーリーも、ものすごい圧力で物を作り、それでいて高解像度だ。圧力と解像度が高く、歴史や社会と符合させながら物を生み出すクリエイターには足元には及ばないことがわかっていながらも、ゲーリーの展覧会は「自分にもできるかもしれない」と希望を与える内容だった。


最後に行ったのは《赤塚不二夫のビチュツ展》。こちらは16日の木曜日で終わってしまうので、駆け込んだ。『天才バカボン』や『モーレツア太郎』『レッツらゴン』などはぼくも小学生の頃から大好きだったマンガで、穴があくほど読んだし今も大好きだ。そんな赤塚不二夫へのオマージュ作品が多数。なかでも祖父江慎さんのブラックライトの仏壇と、アラーキーによるポートレートは優しい気持ちになれたなぁ。

高圧力・高解像度のクリエイターというよりは、赤塚不二夫は軽やかさと徹底した遊び心なんだよなあと思いつつ、それをさささっと表現する絵の上手さなんだよな〜とか思いながら、「バカは死んでも治さないのだ」って至言が頭のなかに響いた。

今日見たどの展覧会も感情を動かされる内容だった。彼らのような大物には足元には及ばないとわかっていながら、奮い立つものがあった。妥協のない執念のようなものは、ぼくも持てるはずだ、とか。

なんか最近暗い話題ばっかりだし、きつい世の中だし非正規雇用だし年金もらえないだろうしいろんな心配事もたくさんある。だからこそこういうクリエイターの執念の炎が世界を照らすことを、考えていいんだと。










2015/12/09

飲み込めない想い、ワークショップ、笑い ー映画『恋人たち』

もう二週間前になるが、橋口亮輔監督の『恋人たち』を観に行った。トレイラーも見ず、職場近くのテアトルの看板だけで、下のコメント

"飲み込めない想いを飲み込みながら生きている人が、この日本にどれだけいるのだろう。今の日本が抱えていること、そして"人間の感情"を、ちゃんと描きたい。"
ー橋口亮輔

これを見て、あ、必見と思って仕事終わりに駆け込んだ。そして、その予感は的中した。ぼくはこの映画を観てよかったあーーーー!!!と思った。その理由は、ワークショップから生まれた作品であること、そこに自分がいると思えること、聞こえない相手へのモノローグの3つ。



映画を作るワークショップを、プロアマ問わず様々な役者の人たちと一緒に実践した、という話は荻上チキさんの「session 22」で知った。橋口監督にはそれ以前にプライベートでとても辛いことがあって、社会的に立ち直れないかもしれないとどん底だった時期に、人に誘われて始めたワークショップがカムバックのきっかけだったという。その内容の一部は、 橋口亮輔の「まっすぐ」というエッセイに詳しい。

ぼくも子ども向けのワークショップをつくる仕事をさせてもらっているけれど、このエッセイに書かれているような、他人の人生をえぐるエチュードをするようなものはまだできていない。本当は他人の人生を変えてしまうほどの磁力を持った場がワークショップなのだろうと思いながら、自分にはまだまだだと思うし、そんな責任も取れていない。

そんなみみっちいぼく自身と比較するまでもなく、橋口監督はその「他者の人生をえぐるようなワークショップ」に身を乗り出し、自分自身の人生をえぐりながら恢復し、映画に向かったのだろうと思う。そうしてえぐられ、恢復していった監督や参加者の人生が映画というバゲットにレバーペーストのように塗りたくられ、観客は苦味とともに希望を味わう。そのためのメディアとしてワークショップがあったのだ。ああ。

※以下、ネタバレ注意

そんなたくさんの人の人生が塗りたくられた映画のなかに、ああ、自分がいるなぁと、我々は感じざるを得ない。愛する妻を亡くした若い男、旦那と姑との生活を送る主婦、やり手のゲイの弁護士の3人が主人公なのだけど、彼らが他人に対して耳を閉ざすこと、情けなとわかりながら行動できない悔しさ、幻に救いを求める滑稽な姿・・・役者のえぐられた人生は、観客の人生も、えぐっていく。

そしてクライマックスの一連のシークエンスは、3人の主人公が、耳を閉ざしてしまった恋人たちへのモノローグへとつながっていく。「飲み込めない想いを飲み込んでる人たちの"人間の感情"」が、やりきれない状況のなかで、そしてそれぞれに聞こえない他者に向かって吐露するシーンは涙なしに観られなかった。

他にこの映画の良かったところは、懸命に生きる人の滑稽さが、どうしようもなく笑えてしまうところだ。水曜日の映画デーで、男女ともに1100円で見られるテアトルには仕事終わりのいろんな年齢の人が集まっていて、随所で笑いが起きていた。温かみのある劇場の雰囲気も、最高だった。

以下、笑えたセリフ集
「ほら、静電気ないんだよ」
「そりゃそうだ」
「ほんとやだ〜」
「いいものいっぱい入ってる。そうだね。自然ってすごいね」
「あれ、回んないなこれ」
「それが今の旦那なんだけど」
「先生、泣いてくれてるんですか〜?」

そう、裏切りや理不尽さ、やりきれなさのなかで傷付いた重たい人生は、ふとした笑いで軽やかになってしまうのだ。ぼくが一番笑ってそして泣いた黒田の言葉「笑うことは大事だよ」に、そうだよね、と思うのだ。

今の時代感とか、黒田の名ゼリフ集とか、語り口はいくらでもあると思う。未見の方はぜひ。観た方は一緒に飲みましょう。

2015/11/24

物の語り、石の語り

子どもの遊び道具について日々考えている。道具も玩具も「物」であり、0~4歳ぐらいの小さい子どもの遊びを見ていると、物を投げたり鳴らしたり転がしたり並べたり、物を使った遊びのなかに、物と対話しているように感じるときがある。その対話が楽しくなるためには、物がより多くのことを子どもに語りかけ、また、子どもの話(行為)を良く聴く(受けとめ、リアクションする)、というのが重要なのだ、と思う。

「物語」っていう言葉って、もしかしたら「物が語る」というか「物の語りを聴く」ということなのかもしれないと思う。こんなことを考えていたら、一つ思い出すことがあった。

小学生のとき、猛烈に打製石器と磨製石器にハマった時期があって、学校から帰ってマンションの裏山に入り込んで石をコンクリートに打ち付けて割ったり、ガリガリ削ったりして、それで木を削って遊んでいた。

そのとき、同時に「堆積岩」と「火成岩」についても習っていた。火成岩はマグマが冷えて固まったもの。堆積岩は水などの流れによって運ばれたものが固まってできたもの。そういう知識があったから、石を拾い集めているときに、それらの石が辿ってきた時間に思いを馳せた。

これが、ぼくにとっての「物の語りを聴く」という原初体験だ。


ただ、「物の語りを聴く」ために別に知識は必要ないはずだ。触ったり、投げたり、いじくりまわすことを通して物と語り合う、とはどういうことか。さて、もう少し考えてみよう。

2015/11/09

いい遊び、トラストミー ー映画『わたしの名前は…』

ファッションブランド「アニエスベー」で知られるアニエス・トゥルブレが本名で発表した監督作品『わたしの名前は・・・』を、渋谷アップリンクで観てきた。


家を飛び出した少女と、トラック運転手。奇妙なふたりのロードムービー。
映画は、あっと驚く結末へ向かって進んでいく。主人公の12歳の少女は父親から虐待を受けていた。ある日、学校の遠足で出かけた海辺で偶然停まっていたトラックに乗り込んだ彼女は、スコットランド人のトラック運転手と共に逃避行に出る。フランス語と英語、言葉が通じない2人は、次第に心を通わせていくが…。10年以上前に新聞で読んだとある事件の記事をきっかけに、アニエスべー自身が脚本を書いた、瑞々しいロードムービー。(映画公式サイトより)

なんでこの映画を観たいと思ったかというと、ファッションに関わる仕事をしている手前、アニエスベーのような有名なブランドをつくった人がなぜこんな映画を撮りたいとおもったのか、そもそもアニエスベーってどんな人なのか、知っとくべきかなとかそういうお勉強的な興味だった。しかし想像を超えて映画は素晴らしかった。様々な映像技法を試していること、即興性、そして色や形の作り込みは、映画が初めてとはいえ、ファッションの現場で場数を踏んでいるだけでなく、『マルホランド・ドライブ』や『パルプ・フィクション』の衣装に参加していたり映画制作を支援していたりする、さすがの熟達っぷりで、あのシーンもこのシーンも素晴らしいシーンの枚挙にいとまがない。

あらすじにもあるとおりこの映画は少女とトラック運転手のロードムービーなのだが、それはこの2人が、世界中のどこにでもある郊外の、他者への情愛も尽きそうなほどストレスフルで気怠い生活のなかで傷を負って生きている日々から逃れる、つかの間の旅だ。その旅は唐突に始まり、静かな予兆を携えながら終わりに近づき、そしてやはり唐突に終わる。その終わりを2人がいかに引き受けたか、ということがこの映画の見どころだ。

とりわけぼくが素晴らしく思ったのは、現代美術家のダグラス・ゴードンが演じるトラック運転手ピーターの存在とその描かれ方だった。彼は少女がトラックに乗り込んでいることを発見しても、ほぼ何も言わずに隣に座らせ、「どこから乗ってきたんだ!」とか「こんなことをしたら、大変だ!誘拐になってしまう!」みたいな野暮なことは言わない。その日の夜は何も言わずに寝て、次の日の朝に「おはよう」という。そして、終わりもまた静かに迎える。

このピーターが「いい遊びを思いついた、俺を信用して。」といって肩車した少女を逆さまにするシーンがある。その状態でぐるぐる回る様はあぶなっかしいのだけど、少女は嬉しそうに振り回されていて、彼は息を切らせながらも笑いながらぐるぐる回る。

キレキレな演出のなかで、ほんの些細なワンシーンなのだけど、この映画全体のことがこのシーンに詰まっていた。少女がトラックに乗り込んでいるのに気づいたとき、ピーターは「いい遊びを思いついた」のであり、そしてフランスパンをナイフで半分に切ってピーナツバターを塗ったものをあげたり、次の日の朝におはようのあいさつをしたりして、「Trust me」と無言で伝え、数日間の旅路を少女と一緒にぐるぐる回るのだ。その遊びの終わりをもまた、彼は引き受けるのである。

かっこいいい!!!!!かっこよすぎるっていうか、うおー!!!

みたいな気持ちになった。

以前にツイッターで、こんなことをつぶやいたことがある。

最近考えてることだけど、ここ数年、あらゆる理不尽さをゆったりと許容し、声に出さないけど他者が求められるであろうことをしなやかに行動して解決に導いていく「キャパシティ男子」というのが増えている、気がする。

ピーターは孤高のキャパシティ男子だったのだなぁ、とか思うと映画が一気に陳腐に見えてしまうけれど、そう感じた。



そしてぼくは見終わったあと、パンフレットを買った。パンフレットがただ可愛かったのもある。だがなにより映画を観てパンフレットを買い、一緒に観た人と飲みながら映画の話をして、帰りの電車でパンフレットを読む、という体験を久しぶりにやってみたくなった。映画館の中では気づかなかった細やかな設定や、俳優の背景、監督の思い、観た人のレビューなどなど、パンフレットで映画のことが語られているのを読んで、映画を観た余韻が言葉になっていくのが嬉しい。

そういえば昔『千と千尋の神隠し』のパンフレットを買って、穴があくほど観ていた。細部までこだわってつくられた映画の細部を知ると、その映画をもう一度観たときの味わいが変わる。何度も繰り返し観たくなる。観るたびにその時々の自分の人生とリンクして、映画が自分の血となり肉となる。

わかりやすいお土産のない体験型ワークショップにも、こういうパンフレットがあるといいんだろうなと思う。


関連する記事はこれ
読み語りき、書く語りき

2015/10/19

予感、仕掛け、気配 ー《パワースポット》展に行った

仕事にしても何にしても、感じていることを言語化していくことで知恵が蓄積されていくので、このブログはあまり考えず思いのままに書いている。

10月17日(土)の朝に思い切り熱を出して、まぁよくあることなのだけど、休まざるを得ず。ぐったりしていたら夜になっていて、そしたら大量に汗をかいていて熱も下がっていた。

翌日の日曜日は千葉までいって、彼女の実家に行って結婚の申し込みをしてきた。死ぬほど緊張した、というかどうしていいかわからなくなって、お父さんのサポートがなくてはぼくは本題を切り出すことができなかった。優しく晴れた日曜日の午前11時に、言いたいことを言えて、思いも寄らず受け入れてもらえたことが嬉しかった。

自分なんかが結婚なんてしていいのだろうかと不安もあるし、自信もないし、かといって迷いがあるかと言ったらないから、ことが進んでいる。この人と一緒に生活したらきっと楽しいだろ!っていう予感に満ちていて、前途多難だけど家族もそれを受け入れてくれる気配がある。何がこの予感と気配を醸し出しているんだろうなと考えたら、人の意志という仕掛けだろうな。



そして10月19日は、一件打ち合わせを済ませたあと、Atsukobarouhというギャラリーでひらのりょうさん、ぬQさん、最後の手段さんというクリエイターたちによる展覧会《パワースポット》を見に行ってきた。

ひらのりょうさんはこのMVの疾走シーンでファンになった。「君に会いに行く」という詞のリフレインと疾走、どんどん変わっていく現実と会えない距離みたいなのがたまんなくてこの歌のスピード感とあいまってしびれた。



展示は、作家のセンスがどばっと込められたタブロー、ミニチュア、ぬいぐるみなどの間に映像が上映されているのだが、中央に置かれたスイッチを押すと、プロジェクションされた映像とブラウン管のテレビに映された映像と音楽が切り替わる。


そしてスイッチがつながっているケーブルを辿ると「作家の間」というバックヤードにつながっていて、そこで作家さんたちがZINEを増刷したり、フリマをしていたり、赤ちゃんが遊んでいたりする。



こうやってここにあるものを作った人達が裏側にいて、そこにぼくらも踏み入れることができて、ここに漂うものたちによって何かが始まる予感や、動き出しそうな気配が、こうして人によって仕掛けられていることを素朴に感じる空間だった。人がものを動かす、という素朴で不思議なパワーのスポットだった。

物事の間に漂う、何かが始まったり動き出したりしそうな気配が漂う空間には何かが仕掛けれれていて、その仕掛けは人の意志とセンスによってできてるんだなと思った。

2015/10/17

読み語りき、書く語りき

先日のブログ「仕事、生活、読書、運動」で書いた「読書について」、その続きで考えていることがある。



まず、「なぜ本を読むのか」という問いに対して、このあいだは「人生の参考書にしたいからだ」と書いたけれど、もう一つの答えがあるような気がしていること。「なぜ本を読むのか」、と聞かれたらぼくはもうひとつ「読んだことを他人に語りたいからだ」と答えるなぁと思う。読書にたいして「語書」もしくは「書語」って言葉はないのかな?書について語ると。

読書というのは感覚的な体験だ。理論書にしても小説にしても、ぞっとしたり楽しくなったりサクサクと納得できたりわからなくなって頭がぐるぐるしたり、露骨な、あるいは静かな高揚をもたらすものだと思う。ぼくは「体験」は言語化することで初めて「経験」になると思っている。体験はその場かぎりだけど、経験は語ることで幾度となく更新される。それでいて読書は何度も体験できる。

「1冊の本を理解したければ10回読むべし。10回読めば、その本の真意がわかる」とも思っている。10回異なる読書体験をして、10回異なる切り口から語れば、真意がわかるどころか、新しい理論もしくは新しい物語に、読み手自身がつくりかえてしまっているだろう。一冊の本に感化されるなら中途半端に鵜呑みにするな、どっぷり入っちまえ。どうせ作者にはなれないのだし、どっぷり入ったところから抜け出したころには作者でも読者でもない別の自分になっているだろうよ。

あと読書について考えているもうひとつは、目的をもって本を読むことの退屈さだ。本を読むときはなんとなく手にとって読み始めたら止まらなくなる、ということが重要だ。ときには無理して読むことで 快に到達することもあるけれど、趣味なんだからそんな無理しなくたっていい。

不思議なことに読書というのは、ある種の目的というか「◯◯についての知識を得よう」もしくは「◯◯を読んだ、という実績をつくろう」と思って読むと至極退屈なものになる。

目的なく読み始めたものから想定外のショックを受けることがある。これこそ読書の醍醐味で、期待していた知識や心象とは異なる方向に自分の心が揺り動かされ、ここで書かれている内容ってこれやあれとつながるのかもしれない!と、想像だにしていなかったリンクが頭の中で弾ける。この驚きが気持ちがいい。

さて次はなんの本を読もうかな。

*関連する記事はこれ
仕事、読書、生活、運動
自分の物語をだれがどうやって編集するの ー舞城王太郎『ビッチマグネット』 を読んでみて



2015/10/05

仕事、生活、読書、運動


mac book proを新調して初投稿。画面はきれいだし、キーボードは壊れてないし、サクサク動くし、最高だ。んで、ただ新しいパソコンで何かしたかっただけで特に書くこともないのだけど、最近考えていることをメモしておく。



1. 仕事のこと。
3年ぐらいかけて、ひとつのリサーチをまとめたいと思っている。子どもの社会参加と今つくっているようなワークショップとこれまでの児童館の活動と、自分のなかでマッピングしたものを外在化できるようにしたいということ。自分の考えの地図と方位磁石をつくりたいと思っている。



2. 生活のこと。
本八幡あたりに引っ越したいってことで昨日リサーチに行ったら街の雰囲気はなんだか素敵だし、葛飾八幡宮はきれいだし、和多屋っていういい居酒屋見つけちゃうしで最高。ホームセンターが近くにあるらしいので、いい本棚とサイドテーブルを自分でつくりたいと思っている。


3. 読書のこと。
小説を読むのは趣味だけど、仕事のリサーチのために読まなきゃと思う本もたくさんある。はてさてどちらを優先させるべきなのか。そもそもなぜ小説を読むのかを考えてみると、結局は「自分自身の物語」を描く方法を知りたいというエゴイスティックな欲求があるからだと思う。「自分自身の物語」には現実や事実じゃなくて思想や空想も含まれるわけで、あらゆる小説が「自分自身の物語」のリファレンスなのだとしたら、ぼくはどの小説を参考にしているのだろう。そのことを知るのはきっと楽しい。

4. 映画のこと。
フェデリコ・フェリーニ『8 1/2』がまた名画座で上映される。今度こそいかなくちゃ。




5. ジョギングとプールのこと。
運動をすることで体調が落ち着く。運動をしないと、疲れているのに暴れたいような気分になって落ち着かない。たった20分でよい。走るにしても、泳ぐにしても、一つのキックもしくは腕かきで、体がぐーっと前に進む感覚があって、ストン、グー、ストン、グーというミニマルなリズムの繰り返しが体を躍らせ同時に落ち着かせる。フロイトの「快楽原則」もそういえば「不快は興奮量の増大で、快は興奮量の減少だ」って話だ。


6. 仕事のことその2。
何をやるにしてもやり方が雑になりがちなのはぼくの欠点なのだが、10月から下半期に入ったということで、運営の計画を運営しながらつくっていかなきゃいけなくて、それはみんなで出てきてる情報を整理して共有するということの繰り返しになっていく。情報の整理には時間がかかる。少ない時間でいかに冷静に情報を整理するかってことだから、問われる力量。駄馬でも走るし考えるのだ。









2015/09/25

野生のメディアセンター ーYCAM《think things》展のおぼえがき

9月16日から17日、山口情報芸術センターYCAMに遊びに行ってきた。YCAMとはいろんな関わりがあるし、いまでは去年までアーティスト・イン・児童館で活躍してくれてた金子春香さんがファシリテーターとしてYCAMで活躍中でもある。


ぼくは初めて行ったときから山口が好きで、仙崎のヤリイカも、ヒラソも、マフグやトラフグのアラも、スーパーで安く手に入っちゃう感じとか、温泉とか、あとは獺祭にとどまらない日本酒の数々(五橋が好き)とか、あとカマボコがめちゃくちゃおいしいとか。今回も魚類を食い散らかしてきた。

それに加えてYCAMは、やっていることが独特でクセのあるところが好きだ。ん〜!なんかいい時期だし!現在開催中の《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展を見に行かないわけにいかない!ということで休みをもらって行ってきた。
http://thinkthings.ycam.jp

前回行ったのは2013年で、そのときの記事はこれ。「遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて」http://takashiusui.blogspot.com/2013/11/ycam.html

10周年記念祭では「life by media」というプロジェクトで、商店街で住民と関わりながら様々なアーティストが関わっていた。そして2年後の今回行ってみて、fablabができていたり、食の拠点形成のムーブメントがあったり、YCAMがハブになって、人々の生活圏のなかに新しいカルチャーの拠点が膨らんでいっているのを感じた。

エデュケーターの菅沼さんは、「これまではYCAMのラボとアーティストがある意味クローズに作品制作をしてきたけど、これからは生活する人々に対してオープンにしていくほうが面白いと思うし、公共施設としての役割はそこにあると思う」と話していた。



《think things 「もの」と「あそび」の生態系》展はその意味で、遊ぶことが生活することである子どもたちを中心に、ユーザーと共同で展示内容を生成していく場だった。YCAMのスタッフがつくったヘンテコな道具(振動によって数字をカウントするボール、光が当たると音がなるボール、棒の先に玉が付いているものなど)を使って、来場者が遊びを考える。考えた遊びのルールや注意点などを記述して「あそログ」をつくる。つくったログは会場とウェブサイト上で共有される。仕掛け、生成、アーカイブがぐるぐると循環する仕組みになっている。



たとえば、光が当たると音がなるボールを使って、光と音の鬼ごっこをつくる。その鬼ごっこに名前をつけて「あそログ」に登録。そうすると次に遊ぶ人たちがそのログを読んで鬼ごっこのルールを発展させる。そうやって遊びがどんな風に進化していったのか、「あそログ」から生態系を読み解くことができる。




ここではYCAMのラボスタッフの人たちが考えた、シンプルな仕掛けのアイテムが並び、その名前がどれもかわいい。スイッチを押すとシンバルやスネアドラムが鳴る「スイッチ虫」とか、転がすと数を数える「なかまんボール」とか、棒の先端に玉がついている「おおわきぼう」とか、ラボスタッフの名前にちなんだものも多い。



「あそログ」は、ネット上で読んだだけではなんのことが書かれているのかよくわからない。わからないがなんだか子どもたちが一生懸命丁寧に書いているので読んでしまう。会場で読んでいると一般名称ではない名前が使われ、ツールとユーザーの間に特別な親密さが生まれているのがわかる。まるで古代文字を読み解いているような、ある部族の村に迷い込んだような気分になる。



このツールたちのなかでも面白いのは「インプット」と「アウトプット」の可視化、外在化があるところだ。たとえば数字を10まで数える、とか、音がなる、とか。

児童館とかで鬼ごっこをして遊んでると
「タッチしたよ!」
「ぴろーん、されてないよ〜」(ほんとはされてる)
「したよ!」
「されてないですー」(ほんとはされてることもわかっている)
「したってば!」→泣き

みたいなことってよくあって、こうやってルールを守らないとぐずぐずになることがよくあるけど、これらのツールは遊びのなかのインプット(タッチ)とアウトプット(タッチされた)を客観的に判断可能にするんじゃないかな、とか。実際は誤作動のようなものも多いかもしれないし、その様子は見ていないからなんとも言えないけど、遊びを堕落しないようにする効果がありそう。

遊びの中でユーザーのメディアリテラシーが高まっていく、というのは、野生のメディアセンターYCAMならではだ。

「展覧会+ワークショップという形式を使って最先端のアート作品を市民に伝える、みたいなことってもう古くて、これからはワークショップでコミュニティでボトムアップだ!」という感じもなんだか気持ち悪くて、結局はフレームを作っている人の知恵と経験と技術のトップダウンと、それを使う人たちのボトムアップの拮抗の中にしか物事は生まれないと思うし、そのことを体感した。



会場内には夏休みの子どもたちのエネルギーによって増殖した700枚ちかくの「あそログ」が展示されていて、いずれも変な名前が使われ、ルールの説明文がヘンテコだ。それがthink things展の独特の世界観をつくっていた。 

展覧会ってアーティストの作品を集めて鑑賞するものがある、という感じの枠組みだけど、ここでの鑑賞者には3つくらいの層があって、ひとつは遊びを作る子どもたちのような存在。そしてそれを引き出す二次的なユーザー。そしてそれを読んだり見たりして楽しむぼくのような一番外側のユーザー。

あ、でももうちょっと言い方を変えると、「おおわきぼう」や「けいなボール」も、作品の一部だと言える。ただし、一見ランダムに並べられているそれらを即座に組み合わせて遊びを創出していく子どもたちの様は、レディメイドを引き合いに出すまでもなく、ツールを使うこと、ツールの流用、誤読、ブリコラージュの創造性なのだなぁ、と。

ぼくのような一番外側のユーザーというか鑑賞者にとっては、この展覧会のコンテンツは主に子どもたちが作り出した「あそログ」、ということになる。

ここらで一回あそログをぱーっと読んでほしい。http://asolog.ycam.jp

これらには誰か特定の個人に権利が帰属するものではなく、CC0*というコードが使われている。食べログ的な集合知であり、独特なツールとその読み替えの実践のエスノグラフィーでもある。

※CC0とは、インターネット時代のための新しい著作権ツールで、制作物について有している著作権やそれに隣接、関連する権利を全て放棄し、公共財(パブリック・ドメイン)とすることができる

この展覧会の枠組みと、あそログと、スタッフログを読み込んでいけば、カイヨワの『遊びと人間』を凌ぐ遊び論に発展しそうな予感に満ちてて素敵だ。

カイヨワは本を読んで、遊びとは純粋な消費であり、遊びは日常から隔離された閉域である、という点についてはほんとにそうか?とは常々疑問だった。think thingsは、フリーカルチャーの起源としての遊びに着目して作られた展覧会なのかな、とか、山口にファブラボができたことや、メイカーフェアが開催されていることは遊びの生活圏への解放を、さらに加速させるのを予感させる。



しかし、一方で、この展覧会の枠組みが東京で実現できるだろうか、と考えるといろいろ不安だ。何かにつけてクレームを警戒してしまう東京で、こんなオープンネスを実現できるだろうか。山口だからできた、とは思わないけれど、YCAMが山口という場所で10年以上かけて積み上げてきた文脈があるから、できたんだろうなと。

展覧会は9月27日の日曜日で終わってしまうけれど、この後の展開をどんな風に考えているのか、山口で何が起きていくのか、またみなさんに会って話を聞ける日を楽しみにしている。

*関連する記事はこれ
遊び、自治、メディア ーYCAMコロガルパビリオンにて
glitchGROUND/子どもあそびばミーティング(1)

2015/09/14

カノン、2.5人称、すり替わるあれこれ

野田秀樹さん作、野上絹代さん演出の『カノン』を観た。すっごく面白かった。



盗賊と判官の時代劇たる冒頭から、それは次第に3億円事件や浅間山荘など昭和の様々な事件とよく似ていく。西洋絵画のボトルやグラスが酒を飲むシーンに使われ、額縁は壁や牢獄にかわっていく。自由は銃になり、妙は見ようになり、お願いは希望になる。っていう話だった。

ダブルミーニングと韻とメタファーと駄洒落の応酬でわけわかんなくなるんだけど、目の前で役者の身体が動き、いろんな表情をするので、なんとなく見えてくるのは善悪とか真偽とかがくるくる回るなかで一生懸命みんな生きてる感。

絹代さん、大きな仕事をしている、、、しかも学生たちを鼓舞してここまで持ってったのかよすごい、、、と震えた。ステートメントのこの一筆がマジで歌舞伎のようにキレ!バシッ!って感じで最高感あった。観劇後にもっかい読んで唸った。

http://endairen.net/canon/

劇中で魅力的だったのは猫の「お願い」という役。「わたし」という一人称でありながら登場人物たちのことを「彼ら」として、観客に向かって表現しつつ、物語の登場人物として「あなた」と呼ばれもする。ただし、猫なので言葉が通じないから、物語の筋を変えようと思っても変えられない。その愛情と悲壮が魅力的なキャラクターだった。

これ、舞城王太郎が『淵の王』で使った2.5人称っていうやつで、その前触れがここにあったのか〜と驚いた。妊娠、という事態を通して物語に介入する『カノン』の猫と、最後の最後に意志の力で物語に介入する『淵の王』の語り部は、意志があったのかそうでないのか、が違うけど。

なんで『カノン』がこんなにも今っぽいって感じたかって、いろんなメタファーやダブルミーニングによって信念や意味がすり替わって善悪が転倒してしまうのって、オリンピックロゴの例を出すまでもなく、何が本当に問題だったのかはうやむやになったまま人が傷ついていくこの時代のムードそのものだなと。

あとは、目の前で起こっている出来事を気ままに眺める2.5人称の猫が、最後に偶然の事態を通して物語に影響していく様。テレビの向こうで起こっていることを無責任に眺めている群衆が、不意に責任を負うことの予兆。もしくはそうなっちまえ!っていう作家の欲望のようにも思える。

今回は猫がその不意の責任を担っていたけど、僕ら観客に憑依してもおかしくない役柄だ。2.5人称的な役回りを、観客が担うような演劇をこれからもっと見たいと思った。

これはよくある「参加型」「わたし、あなた、みんな」みたいなのは違うと思う。介入したくてもできない!という悲壮さが2.5人称にはある。それを乗り越えて物語に介入しようとする意志とハプニングが、この形の美しさなんだろうなーと思う。

野田さんの演劇を生で観たの初めてだったし、戯曲のこともほとんど知らなかったし、役者さんのこともほぼほぼ知らなかったので、なんの先入観もなく見ていたら、随所に絹代さんらしいこだわりが見られて嬉しかった。

2015/09/05

わからないリアリティ、めくったりひっくり返したり

目の回るような忙しさだった夏が過ぎようとしていて、日の落ちるのも早くなったし、ひんやりした風が吹いて長袖を着るようにもなってきた。夏の企画も一息ついて、次なる担当企画は今月末と12月。その間も毎日ワークショップである。年間で20近くの企画を作らなきゃいけない、って厳しいことかもしれないけど、企画屋としては毎日酔っ払うような心地よさである。


さて先月末から0〜2歳の子も参加できる企画が始まった。託児ではないので保護者の人にも入ってもらうんだけど、そこで思ったことが2つある。

ひとつはお母さんたちとの会話が日々面白いということ。初対面の人に自分のこともろくに紹介しないでも、子どもたちの遊びの様子を見ていたら会話がぽつぽつと始まっていく。

そんななかでお母さんたちがワークショップに何を求めているのか、ってことを日々考える。言語や知能の発達の促進なのか、子どもの溜まったエネルギーの発散なのか、ほんのちょっと一息つきたい、という気持ちなのか、とか。

とはいえ、ぼくは結婚も育児も経験ないし、できたとしても妊娠も出産も一生経験できない。つまり自分は母にはおよそなれないし、「お母さんの立場になってみて考える」ということが、絶望的にできない。多少の想像はできるかもしれないけど、およそリアリティには到達し得ない。絶望的にわからないリアリティを前に、頓珍漢な想像しかできないかもしれないけど、その頓珍漢さから何か面白いことが思い浮かぶかもしれない。



あとほかにも興味深いことはいくつもあるけれど、幼児の子たちを見ていてとくに面白いと思うのは「おもちゃで遊ぶのが好きじゃない」っていう感じの子だ。1歳から2歳くらいで、言葉を少しずつ話し始めてて、歩くのも上手になってきているくらいの子たち。「こっちでおもちゃで遊ぼう」と誘っても、見向きもしないで、イスや机や引き出しの扉に関心をもつ。ティッシュやトイレットペーパーも大好きだという。

オープンエンドな、多様な遊び方のできるおもちゃはまるで信頼できる話し相手のようで、いろんな言葉で子どもに話しかけるし、子どもの話をよく聞く。

その一方で、既成のおもちゃは実用性と直結しない。おもちゃに魅力を感じない子は、鍵や引き出しや机などの実社会で使われているものをおもちゃにするのが楽しい様。

そういう子は柵があれば乗り越えたくなるし、穴があればほじくりたくなる。めくれたカーペットをひっくり返したくなる。目の前のおもちゃの言うことを聞いて遊ぶより、自分がいる空間それ自体ををめくったりひっくり返したりしたい!という欲望なのだろうか。

そうなると、ワークショップを作る側としてはめくったりひっくり返したりできる空間を作らねば、と思う。例えば、全部食べられる「お菓子の家」みたいに、丸ごと遊べる/食べ尽くせる空間だったら、そういう子たちはどんなエッジを探るんだろう。そういういたちごっこは楽しそうだし、子どもとワークショップデザイナーの相乗効果だよなーとか。

繰り返す、めくる、ひっくり返す、ほじくる、歩き回る、など、1歳児のイタズラアクションをリストアップして研究したら新しい企画できそう。

はぁ。日々の実践の中で思ってることをこうしてがーっと文章にしてみるとポーッとしてスッキリするものだ。そしたらまた明日。

2015/08/16

企画、熟慮、純米吟醸

いやぁ、今年の夏はまったく目の回るような忙しさで、担当させてもらった企画が盛況でとにかく嬉しい。あと一週間、とにかく無事に終わることを願うばかり。



「企画のクオリティは担当者で決まる」というのは西村佳哲さんが講演会でおっしゃっていたことで、いつも本当にそうだなぁと思う。今回はぼくが担当だったけど、もろもろのツメの甘さをチームのメンバーにフォローしてもらいながらなんとかここまでこれた。企画全体や、その受け取られ方にもぼくの長所も短所も現れている気がする。

質のいい企画をつくるには、担当者の情熱とタフネスが問われていて、「これは面白いからなんとしてでも成し遂げたい」という気持ちと、うまくいかないことがあって内部でボロクソに叩かれても、その度に熟慮して改善するところは改善し、曲げない信念は曲げない、みたいなしなやかさと粘り強さが問われる。そつなく、サクッといい企画をつくっている人なんて、きっとどこにもいない。



まあまだ終わっていないので振り返るようなことはまた改めて書きたいんだけど、でもこの段階で思うことは、魅力的なワークショップをつくるにはとにかく広く、深く熟慮することだ。そしてそれをチームでやることだ。個人ではワークショップはできない。やっぱり、企画をつくることは日本酒をつくることにきっと似ている(日本酒をつくったことはない)。チームでいい酒をつくるのだ。

おいしい米を育て、収穫し、脱穀し、そして精製する。それと同じように、膨大な情報量をリサーチし、テーマを絞り込み、ワークショップの形を整え、幾度と無くブラッシュアップする。そのブラッシュアップっぷりが大吟醸なのか、純米吟醸なのか、それで参加者の経験の質がかわる。

つぎの担当の企画もはやくも1か月後。ぬかりなきよう。

2015/07/09

物語の穴、乗り物、大げさな身振り―『きみはいい子』『マッドマックス』『ポンヌフの恋人』

先週、珍しく3本も映画を観たのだけど、どれも色味が違う映画であったし、どれも超絶よかった、、、!

観たのはテアトル新宿で『きみはいい子』、TOHOシネマ新宿で『マッドマックス 怒りのデス・ロード』、Bunkamuraル・シネマで『ポンヌフの恋人』。(未見の方はネタバレあるかもなのでご注意ください)
まずは水曜日に観た『きみはいい子』。テアトルでやってて職場近いし、伊勢丹でコラボ企画やってることもあって、同僚に誘ってもらって観に行った。(予告編に重要なシーンぶちこみすぎなので、予告見ないで本編みてほしいかも・・・)

呉美保監督の新作で、ポプラ社から出てる小説『きみはいい子』が原作。一つの小学校とその街を舞台に、いじめや虐待や発達障害、自閉症など、重たく感じる題材だけど、ぼくたちも暮らしていて出会う事柄で、もしかしたら当事者になるかもしれない事柄を、普通にそこここにあるものとして扱う。

ハイライトはいくつもあるけど、ひとつは劇中に出てくるある「宿題」の感想を子どもたちが答えるシーン。唐突に出されたへんちくりんな「宿題」の感想を、やってきた子どもたちが口々に答える。普通ならこの手の泣かせ系って現実味がなくて白けちゃうんだけど、この映画は違った。

子どもたちが感想を答えた始めた瞬間にカメラが手持ちに切り替わるんだけど、あれ、、?これ、よくみたらこの映画に出てる子って、素人の子達なのかな、、、?おお、この子のきょどった感じとか、照れ隠しのやり方とか、小4男子そのもの、、あれ、、これ、もしかしてこのシーンだけドキュメンタリーなの、!!!?ってなる。子どもたちの反応や声のトーンが、奇妙なほどに落ちていて、元気さを押し付けられている子どもとは異なる小さく変な生き物で、愛されてる子どもたちの振る舞いだった。「現実味」とかじゃなくて、映画をつくる中で「事実」が生まれていて、それを記録している!!!ってなって泣くよね。

よく考えると、子どもに音読をさせるシーンで、一生懸命、やりすぎな抑揚をつけて読む子どもの姿とか、呉美保監督は子どもの演技性とそうでない照れや緊張にあるリアリティを分けて描いてる気がする。

物語としても、男女平等に名前に「さん」をつけて呼ぶところとか、ママ友コミュニティの歪さとか、観てるものの身体をゆるやかに狭窄させる感じと、「にゃんばっへ、、、、(がんばって)」とか、「絶対やってきます!!!」とか、名台詞連発で、池脇千鶴のとっさのあれとか、ハッとする場面の連打連打で、ラストの高良健吾が駆け出すシーンと第9が流れるところもドラマ的にふわあああああああお見事、、、って感じの重さと軽やかさの対比も素晴らしかった。泣かすよね〜って感じで。

とりわけよかったのは、物語に空いた「穴」になんだと思う。さっき書いた「宿題」によって、崩壊気味だった教室のムードは変わり、別の場所でもパラレルに起きる同じ行動が重さのある映画の雰囲気を少しずつ軽くし、晴らしていく。映画はハッピーエンドに向かって駆け出していく。だけど、物語は「穴」の空いたまま、輝きのかたわらにぽっかり空いた「穴」から闇がこっちを見ている感じがする。その闇が待つ扉の前で、キラキラした汗をかいた主人公が息を整え、ゴンゴンゴンとノックをする場面とその中断!!!穴の存在をはっきり示してる感。

日々の暮らしの中のムードに違和感や苦しさを感じているなら、この映画必見かもしれない、、、。


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』


『マッドマックス 怒りのデス・ロード』はもちろんアドレナリンをどるるるるん!注入注入!って感じでずーーーっと映画的に走り続けてるんだけど、情動をゆさぶるメタファーの連打連打が楽しくて仕方なかった。名前、ハンドル、手、種、乳、スプレー、油、、、もうあげればキリがないや。邦題の「怒りのデス・ロード」っていう語感とか、劇中で「insane」って言ってんのに字幕がわざわざふりがな付きで「狂気(マッド)」って入れちゃってるところとか、日本の配給会社のひとや字幕手掛けた人も、この祭りに乗りに乗っちゃってちょっとバカになってる感じがたまらない。

しょっぱなからわけわかんないところに巻き込まれた主人公のフラッシュバックを使って観客が彼に憑依せざるを得なくする感じとか、物語の中と外の両方を鼓舞する太鼓と変態ギター男を積んだ音楽車が伴走してるとことか、観客を客席ごと巻き込むような構造があって、最高のライド感だった。映画ってやっぱ人を異次元に運ぶ乗り物だよな!乗り物感さいっこう!!!!

あとぼくがいいなぁ〜と思ったのはあの最後のほうのシーンでトム・ハーディーのマックスが「ぉっとっとっと、、、これを高く上げて、、、」とかってぶつぶついいながら輸血の準備するところだよな〜。あの朴訥とした色気と優しさすげーかっけー・・・と。なんか全体的に女性を強く大切なものとして描くところとか、それを支えるマックスやニュークスなど男子勢っていう物語の構造もよく考えたら超好みだし、それはラストシーンの優しさが映えるわけだわ。


『ポンヌフの恋人』



現在Bunkamura LE CINEMAで開催中の「ヌーヴェルヴァーグの恋人たち」。以前に『ホーリー・モーターズ』を観て以来ずっと劇場で観たかった『ポンヌフの恋人』をついに。初回だったこともあってか、ものすごく混んでいましたよ。

レオス・カラックス監督のいわずと知れた伝説の映画で、制作に時間がかかりすぎてポンヌフ橋での使用許可期間がおわっちゃって、しょうがないからっていって実寸台のセットをつくったらめっちゃお金かかった・・・という作品で、ラストシーンのショットは『タイタニック』のあのシーンのモチーフになってるんだとか。

予告編でも観られるようなこの橋の上での花火のシーンは圧巻だったし、ドニ・ラヴァン演じるアレックスは運命の操作人で、ミシェルに話しかけるきっかけをつくるために絵を挟んだ包みのヒモを解いておいたり、お金の入った缶を橋のヘリから落ちるように少し位置をずらしたり、そのあとに起こるハプニングを予想してそうなるように仕掛けていく。それでも、ハプニングを起こしたあとの感情のやりとりは想定できるものではなくて、嘆いたりスネたりしながら、ここに留まりたいと願うアレックスと、どこかへ行きたいと願うミシェルの衝突と抱擁は美しくてぽーっと見入ってしまった。

もうすぐ目が見えなくなってしまうミシェルが、アレックスに支えられながら駅の地下道を歩くシーン。「どんなことでも大げさにやって。私にわかるように…」といったあとに、おもむろにミシェルの前に躍り出て、回り、走り、壁を蹴り、宙返りをし、大きく動くアレックスのあの身のこなしがきれいだった。

子どもも嬉しいとピョンピョン飛ぶ。聞いたことがあるのは、人間の脳は大人になるとエネルギーの放出を60%ぐらいに抑制することができるようになる、というか無意識にしてしまうらしい。子どもはまだその調整ができなくて、なにか嬉しい事があったり興奮のスイッチが入ると100%に振りきって、脳ミソからの喜びの指令を身体のなかにとどめきれなくてぴょんぴょん飛んでしまうんだとか。

不安なミシェルに向けて、60%で抑圧することなくハラハラするほど振り切った様を見せるあの大げさな身振り、ああぼくも好きな人に対してこういうことできるかなぁとか。

ゴダールの『はなればなれに』とかトリュフォーの『大人は判ってくれない』とか、観たい映画たくさんあるこの特集。

いい映画を3つも見ることができて多幸感がありました。


*関連する記事はこれ
彼女、沈黙、大人になるまで ー今年観た映画ベスト3
仕草の音、勝利の断念 ー映画『大いなる沈黙へ』


2015/07/06

新しい古着の遊び方 その1

6月28日(日)は友達の誕生日で、なにかと印象に残っている日なのだけど、今年のこの日は「浅草橋天才算数塾」という場所で、「浅草橋古着サロン《新しい古着の遊び方》」というトークイベントがあって、FORM ON WORDSとしてぼくと竹内さんで参加した。

前回4月に開催されていたときに遊びに行ったのだけど、それがすごく面白かった。TIME OUT TOKYOから引用すると企画概要はこんなかんじ。

会場ではトータルコーディネートで1万円以下の古着の展示販売する。出店者は、セクシーキラー、中嶋大介、平山昌尚、軸原ヨウスケ、嶺川貴子など。「ヴィトンのバッグを持ち、フォーエヴァー21の服を着る。ニューバランスのスニーカーを履き、アークテリクスのバックパックを背負う……」といった画一的な巷のファッションに対して、無限の選択肢を提示する。

で、その時の写真がこれ。



ぼくは津村耕佑さんがコーディネートしたというセットを買った。もともとぼくは他人の服を着るのが好きで、「半分自分で半分他者」みたいな感じがするのがとても居心地がいい。ここで販売されていた誰かが組み合わせた服はもはや他人の抜け殻をもう一度着ている、みたいな気分になって面白い。このイベントのコンセプトは自分の洋服の消費の仕方にとてもよく合った。

今回のトークイベント「新しい古着の遊び方」では、デザイナーであり『展覧会カタログ案内』や『アホアホ本エクスポ』などの著作で有名な中嶋大介さん(フィナムでのブログ「eat,buy,repeat!」が面白いです)と参加者を交えて、服の消費の仕方についてあれこれと話をした。

話題は「ファストファッション」と「古着」の比較で進んでいった。



ファッションコーディネートの検索ができる「WEAR」など、アプリを使えば、「失敗しない服選び」を誰もができる。自分の体型に近いオシャレな人をフォローして参考にするだけでなく、その人が身につけているアイテムを買うこともできるようになっている。指先でタッチパネルの画面をめくりながらコーディネートできる時代だ。かつてはメンズノンノなどのファッション誌が「この夏はチビTだ!!!」と言っておきながら、数ヶ月後には「まだチビTを着ているやつがいるぞ!」と、流行遅れの不安を煽るようにファッションがかたちづくられていた。一方現代では、ある種のビッグデータ的なものから、流行がつくられる。

「ファストファッションは、そうやって流行にもすぐキャッチアップしているし表層的な見た目はいいとしても、縫製はどうなのか?品質はよいものなのか?」という疑問もでたけれど、これまた縫製もよくできているらしい。ロット数が多い方が、やすく、そして縫い子さんたちが慣れるから、縫製技術も向上した状態で納品されるらしい。

じゃあもうファストファッションでよくね?ってなるところ、古着好きの側の意見。古着は、着こなすには工夫が必要になるし、新品のようにぴったりのサイズというのはなかなか無い。サイズや形が身体に合わない、ということから着ることを楽しむのが、古着の楽しみだ。

最近読んでいた本で『空間の経験 身体から都市へ』という本がある。そこには、空間の知覚とは、視覚と触覚と運動感覚による、と書かれている。

「服に袖を通す」という体験は、その意味では「空間の経験」だ。腕がスルリと筒状の空間を通り抜け、しっとりと生地が皮膚を撫で、背中と胸とおなかをふわっと包むときの感覚をもって、その服の心地を把握する。

新品の服は、身体や時代にスーツするようにできている。古着には、そもそも日本人の体型に合わせて作られていなかったり、シルエットが古い時代のものだったりするので、袖を通したときにぴったりこない。むしろそのズレや余白感、違和感を楽しむ、というのが古着の楽しみ方なのだろう。

触覚文化としての服と、服の物語経験についても話が出たし考えたことあったけど、ちょっとそれはまた次回に!


*関連する記事はこれ


2015/06/23

戯れを、いたずらに、終わらせるなよ

ワークショップを日々やっていて思うのは、「遊び」を終わらせるのはいつも大人で、「一回」とか「一曲」とか「ひとコマ」とか単位を与えて、その時間に終わるように仕向ける他者のおかげで、子どもたちは遊びを止めなければいけない。



社会はそういう単位を組み合わせた「時間割」でできているし、その時間割を守ろうとする姿勢を内面化することで子どもは大人になっていくんだろう。でもそれって、つまんなくなるっていう意味でもあるような気がする。

「パーティーを23時でお開きにするのかい?」っていう話と一緒で、もっともっと!!もっと!!もっと遊ばせろ!!!!!!と吠え出すような突き抜け感のある熱中っていうのがきっとあるんだと思う。そしてそれは充分な「戯れ」のなかから織りなされていく気がする。なんかそういう時間が泣く泣く終わっていく感じにいつも出会いたい。

ああでもないこうでもないと試行錯誤して、なんだよそれとゲラゲラ笑い合う親密な他者がいて、そういう未完成のものが遊び磨かれていくその際中に気付かずして芽生えるグルーヴみたいなのって、思春期に経験ある人たくさんいると思う。

そういうグルーヴをもっともっと狂わして狂わして、ギリギリで制御して人に見られるようにするのが演出とか振付とかで、それを人に体験してもらってどこいくかわかんないけど入り口だけ開く、っていうのがワークショップだとすると、やっぱ戯れを簡単にお開けきにしないでくれよ!って思うよなそれは子どもならさ。

終わらせたり片付けたりマナーを守ったりするのが大人なんだけど、創造の場なら可能な限り狂っててほしいというか、狂気と制御のバランスをどう整えるのか。人々の感情の抑揚を扱う演出家とか振付家とかワークショップをつくる人とか、手腕と倫理が問われる仕事だよなぁと。

*関連するのはこの記事
カーテン、役割、見立ての遊び
ワークショップのドラマトゥルギー その1


2015/06/19

痛み、身体の違い、時代のムード

昨日は、午前中は練馬のママ友たちとデニーズでお茶をしながら、いろんな子育て事情の話や、彼女たちの活動のことをいろいろ聞いて、地域コミュニティの面倒さや家族を営んでいくことの日々いろんな闘いがあることを聞いてきた。1時間半だったけど、とにかく面白くてゲラゲラ笑った。



そして午後は高野萌さんの展示を見に行った。一緒に仕事をしていたころよりも格段に自分のやりたいことにむかっている感じが研ぎ澄まされていて、そのなかでつくられた作品たちは事物の魂を刺すような迫力があった。かっこよかった。そして息子のうな君にも初めて少しだけ遊んだ。お母さんがつくった日傘を遊び道具にして笑う姿に、なんだか澄んだものが肺のあたりに広がっていくのを感じた。

Coci la elle 本店企画展示『よくみる夢が日傘にくっついている』展 6月24日まで。おすすめです。



とにかく母である女性たちはみんな別々の人生を歩んでいるけど、かっこよくて美しかった。ぼくにはおよそ彼女たちの母としてのリアリティを自分のものとして感じることはできないし、ああなりたいって憧れることも、自分は男だから違うって切り離すこともできないし、わからないからただ想像することしかできない。いや、想像することさえまともにできていないだろうなぁと思う。

母性本能とか、男性の闘争的な本能とか、そういうのあんまり信じてないけど、ただカラダの仕組みが違うというのは、信じるとか信じないとかじゃなくて事実だ。男性は自分のカラダの中に他者の命と身体を宿すことはできないし、その人を生み出すことの痛みもない。女性はその準備をずっとしていて日々痛みとか体調の内側からの変化と闘いながら暮らしている。(風邪だの飲み過ぎだのでグダグダ言ってる男子とは全く違う)だから女性はか弱いから守らなきゃだめだ、なんていい加減な嘘で、むしろか弱いのは男子のほうだよなぁと思う。

「経済」がぐんぐん「成長」していた時代には、男子も元気で、おれについてこいスタイルでなんとかなったけど、先行き不透明で大きな企業でもいつ潰れるかわからなくて、どうしたらいいかわかんない社会で、時代はなんとなく争いの雰囲気に向かっている日本で、男子のナイーヴさは内にこもって震えはじめているような感じがある。おれについてこいってなんか勢いとしてに言えない、っていうのが男子のリアリティで、つまりそういう男子の姿勢というのはその人個人の気持ちというより時代のムードだったんだろう。

こんな時代に、男子には「自分には痛みがない、あるいは鈍い」ということの無意識的なコンプレックスさえ出てきているはずで、「生理痛・陣痛コンプレックス」みたいなのがある気がしている。さてじゃあそのコンプレックスをかかえてどうやって生きていくのか、というかどんなのがつぎの時代のムードなのか、みたいな話はまた今後。







2015/06/15

当たり前を疑う、傷を伴う

「当たり前を疑うことが大事」みたいなことは、社会学とかコミュニティアートとかワークショップとか、人や社会と関わるいろんな場面で言われてるけど、この言葉ってなんか疑わしいというか、誤用されてるよなと2年くらい前から思っている。





「当たり前を疑う」というのは多分正しくは、自分が当たり前だと思っていることに対して、なぜそれが当たり前になったのか、他の方法はあるかを問いかける、ということだ。内省や自己批判を含むことだと思う。

しかし、いろんなところで耳にするこの言葉の多くは、他者が当たり前だと思っていることを見つけて「こんなことに囚われているんだね」と、ともすれば小馬鹿にしたような感じで使われることのほうが多い。ここに、「当たり前を疑う」ということの誤用がある気がしてならない。人のふり見て我がふり直すという態度がなく、人のふり見てあざ笑うような、そんな感じの人がこの「当たり前を疑う」ということを言っていて、ゾワッとした。(しかもその人は「アーティスト」と名乗っている。ワークショップは自己表現の方法ではなく相互作用の場であり、他者をコントロールするために使う手法ではないとぼくは思う)。

何はともあれ、「当たり前を疑うことが大事」みたいに思っているなら、他者の当たり前を見る一方で自分自身のふるまいをよく観察し、自分自身の「当たり前」を疑い、驚き、ときに落ち込んで、変化していくべきなんだと思う。社会学者も、コミュニティーアートに関わる人も、ワークショップを作る人もみんな、実践者が変容していくプロセスにしか誠実さはないし、これ、超大変なことなんだなと思う。

疑いは傷をともなうし、他者への疑いは他者を傷つけ、同時に自ら傷つく位置に、踏み込まなければなるまい。その互いの傷の回復の中にしか学びなんてないんだろうと思う。

ぼくの恩師が「わかることはかわること」と言っていて、当たり前を疑うことからなにか発見があったり気づきがあったりしたら、そのことについて熟慮しないと、自分の行動が何か変わったりしないんだろうな。あるいは無意識にめちゃめちゃ影響受けて変わっちゃうか。

でも、いつだって人が何かを学ぶって面白いし、傷をともなうからキツイし、だからこそ愛おしくもある。

2015/06/12

物語、事実、魂 ー快快『再生』と、ままごと『わが星』

今日は劇団ままごとの『わが星』を観てきた。先週の今日は、舞城王太郎の『淵の王』を読み終わり、先々週の今日は快快の『再生』を観た。



言葉とか物語とか人間の身体とか動きとか魂みたいなものとか命みたいなものとか、そういうものを単線的な時間じゃなくて行ったり来たり方々に散らばったりする、日々生きてる時間感覚とは全然違う時間の中で体験させてくれるのが演劇や小説の力だなと思ったけど、いや、違うよなと。

こういう作品を全身全霊で作っている人たちがいて、人々の自己顕示欲とか、浅はかな甘えとか、思慮のなさとか、そういうものがあると同時に、人間の肉体は生きてて生き生きできたり死んだふりができたりするのだ、ってことを『再生』では目の当たりにした。ただ肉体があって、動いたり叫んだりするという事実だけでなく、それを何かに見立てたり不意に感情を動かされたりするわれわれ観客の存在があることも、事実として浮彫りになるんだけど、その事実を目の当たりにしたことがなんだかやたらとグサグサきて、あの迫り来る何かは全く言葉になる気がしない。



『わが星』の最後のセリフ、「あなたには私がどんな風に見えているの?」という問いに対して「光ってる」と答えたそれは、メタファーじゃなくて、光っているというか、光を反射してそれを目が認識してるから見えている、というただただ事実で、そうであること、をただ肯定しているだけだった。

物語を通して、真実でも現実でもなく、事実と出会い直す感じって、なんだろうなーわかんないなー。

ここ数週間で出会ったどんな作品も、人の力が結集して、惰性や甘えがなく、キレッキレの仕事がなされていた。魂を捧げた仕事があって、そうでなくては物語は人の心を震わせない。そういう仕事を僕もしなきゃと思って、部屋に帰ってまず片付けをした。

2015/06/04

気持ち、影響、小説の憑依 ー舞城王太郎『淵の王』

休みの日の夜にブログを書けるのは、のんびりしてていいなぁとか思いながら、今日は怖くてワクワクして最高だった舞城王太郎の新作『淵の王』のことを書く。Twitterにも書いたけど、『ビッチマグネット』以降のネオ青春感と、舞城ならではの文体に硬質さが加わって、さらにスリップストリームにチャラさが消えて怖さ!興奮!!!(以下、ネタバレある)


俺は君を食べるし、食べたし、今も食べてるよ――。

魔に立ち向かい、往還する愛と祈り!

友達の部屋に現れた黒い影。屋根裏に広がる闇の穴。正体不明の真っ暗坊主。そして私は、存在しない存在。“魔” に立ち向かうあなたを、ずっと見つめていることしかできない。最愛の人がこんなに近くにいたことに気づいたのは、すべてが無くなるほんの一瞬前だった……。集大成にして新たな幕開けを告げる舞城史上最強長篇!

話題になっているのはこの小説の語られ方で、「1.5人称」とか「3人称」とか言われるんだけど、要は、各章の主人公(中島さおり、堀江果歩、中村悟堂)の背後霊が、主人公に向かって語りかけるように進んでいく。いろいろ書きたいけど今日はこの仕掛けのところを書きたい。

「何となくだけど、俺はずっと君と同い年だと思ってた。俺は君のことしかしらないし、君とずっと小さい頃から育っていて、と言うよりふと気付くと気見といて、俺は君のいる世界から、君の見るもの聴くもの触るもの、そして君と話した人から全てを同時に学んできたのだ。」
(第二章「堀江果歩」の冒頭より)

↑こんな感じだ。登場人物の行動に同意したり、驚いたり、慌てたりするこの語り手が優しくて、かわいくて、そして勇敢で、たぶんきっと神様なのかもしれない。主人公の行動に決して手出しをしない(というかできない)この語り手(神様)が、最後の最後に決死の介入をしようとするシーンがもう最高に最高なのだ。この語り手の言葉のグルーヴ感が、もちろん舞城ならではのグルーヴィーな文体になっているんだけど、今回は抑圧の効いた、硬質で優しさに満ちた質感になっていて、それでいて次々と恐ろしいことが起こっていく。音楽的なライド感がすごい。

それで、この仕掛けが面白いなぁと思うのは、小説を読むってある種の「憑依」とか「幽体離脱」の体験で、他人のカラダに入り込んだような、あるいは幽霊になって世界を俯瞰しながら見るような、そういう経験なんだってことを、物語の中と、物語を読む人の経験の両方で味わえるようになっているということ。『九十九十九』でメタレベルで遊びまくった舞城は、ここでまた本気出してきた・・・・って感じになっている。



『淵の王』は、怖い想像が悪い影響を持つ、ということを、「怖い話」と「他者への呪い」が次第に影響していくことを描いている。

でもこういうことってぼくらの現実でもよくある感じだ。昔、ぼくが九州に向かって鈍行列車で一人旅をしていたとき、岡山の公園で野宿しようと思ったら霊媒師でホームレスのおじさんに出会って、一晩その人の話を聞いていたということがあった。

そのときに霊媒の話を色々聞いているうちに背中がぞくぞくしてきて怖いな〜怖いな〜って思っていたら、おじさんが突然指をパチンパチンと鳴らしはじめて、「こうすると気持ちが明るくなるし、空気も変わるでしょ?あいつら(霊とか)はこういう明るい気分が嫌いなんだよ。人が怖いと思ってる気持ちが好きで、そこに集まってくるからね」ということを言っていた。まさに、怖い想像が悪い影響を持つ、その感じだ。

「怖い気持ち」は怖いものを引き寄せるメディウムになる。高校生の頃にクラスのみんなでハマった『新耳袋 ー現代百物語』は、怪談が99話掲載されていて、最後の1話はあんたの身に訪れちゃうぞ、という、「怖い気持ち」を媒介にして、話を読む経験と日常の暮らしを地続きにしてしまうシリーズだった。今回、舞城は「背後霊の語り」っていう、語り手が読み手に憑依しつつちょっと浮いてる感じの小説の仕掛けによって、「怖い話」とそれを読んだときに起こる気持ちを、層を重ねるように現実への影響作用を強めている。

舞城作の怪談百物語をツイッター上で流すアカウント「深夜百太郎(@midnight100taro )」は、まさに百物語をツイッター上で実践するという文学的アクティビズムで、またしびれることをやってくれてる。

「感情や暴力はムードやトーンになって周囲に伝播する」っていうのは『スクールアタック・シンドローム』でも扱っていた主題だ。一方「意志が運命を変える」っていうのは、『ディスコ探偵水曜日』を貫いていた。ここでいう「意志」は、「そうしようと思ってすること」ではなく、「なんでだかわかんないけどそうしちゃうし、どうしていいかわかんないことをぐちゃぐちゃやってなんとかしようとしちゃう」みたいな、「衝動」に近い意味で使われている。衝動であると同時に信じる気持ちを持つ感じが「意志」、みたいな。

そもそも、ある感情が芽生える原因なんてハッキリしていなくて、唐突に、文脈なしに自分の心に巣食っちゃう「気持ち」が、行動を促したり周囲を変容させたりしてしまう、っていうのは舞城の世界観の独特さだよなと思っている。それが恋だったり呪いだったりするのかもしれない。そんな独特さの中で、責任とか約束とか信じる気持ちとか、そういうダサいけど切実な気持ちをもってダバダバと生きていく登場人物たちに、いつも陶然としてしまう。

いやぁ〜きっと『新耳袋』シリーズ読んでるんだろうな〜、とか、最後の「中村悟堂」はベケットの『ゴドーを待ちながら』とかけてんだろうな〜、とかアニメに挑んだ『龍の歯医者』や『バイオーグ・トリニティ』で漫画原作やってるのとかそういう経験が反映されてる感がすごくある「堀江果歩」の章のあのかんじとか、あのシーンの恐怖表現すげぇ!!!とか、いろいろ書きたいことあるけど次の機会にする。

とにかく激烈お勧め。

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2015/05/22

縦横無尽に跳ねまわる感情、Mommy

昨日、ずっと観たかった映画『Mommy』を観てきた。感情のうねりに乗ったまま2時間、映画ってこんなにもいろんなことできるんだと、ワクワクしたり緊張したりして物語に乗っていた。



多動性障害を持つ少年スティーヴとその母の物語。うれしいときは周囲をドン引きさせるほど過剰に動き、ふざけたいときは他者との親密さの垣根を容易に飛び越え、唐突に、ほとんどなんの前触れもなく激昂する、そんなスティーヴの感情の渦にぶつかりながら必死に彼を愛そうとする母親と、そのうねりのなかで自分を解き放っていく隣人カイラ。何が起こるか先を読めないこの関係性は、終始緊迫しているんだけど、生活の中の刹那に現れる幸福感は、長くは続かないことがわかっているから擦り切れるように美しかった。

この物語は、どうやったって「うまくいく」ということがありえないだろう世界での、希望と選択と行動の物語だった。そして、いまこの時代の物語とは、「うまくいかない」ということが根底にあって、そのなかにある刹那の喜びとか激しい苦難とか、そういう情緒の躍動自体なのかもしれない。

思いもよらないことが、準備なしに次々と巻き起こっていくなかで、登場人物たちは感情のおもむくままにあたり砕けるように行動を選択していくんだけど、どうやったって「うまくいく」なんてありえないんだけど、どうやったって信じているのは希望で、それは愚かでもろく、それでいてタフな人間の業であり業の賛歌なんだなぁと思いながら、何度も泣いた。

こういう物語を描くために、「うまくいくなんてありえない」ということを前提に据えることの困難さがあって、ともすれば不幸自慢みたいな陳腐な悲劇になるだろうし、「うまくいく」という方向に安易に逃げたくなってしまうかもしれない。うまくいくわけない現実の中で希望を信じるって、一体何で、どうやってやるのか、「なんとかする」ということをどうやって行動して形にして現実と関わっていくのか。シチュエーションを設定し、そのなかで出来事と情緒を縦横無尽に跳ねまわらせながら、希望のことを描くなんて。

ただ呆然とするばっかりだったけれど、1つ確かだと思ったのは、物語をつくるということは感情を扱うということで、人の感情を逆なでしたり快楽を与えたり怯えさせたり優しさでつつんだりすることなんだろうなと。そしてそれは、どうしようもなく切実な何かから言葉になっていくんだろうなということだった。

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2015/05/14

泳ぎ方、カラダの姿勢、仕上がり

よどみなく、ゆったりとした心の状態、動きの流れ、というのがある気がしていて、それはカラダの動きのムダのなさ、やわらかさもさることながら、自分を疑い、自省することができて、何か無意識に間違った態度をとっている他者がいれば愛をもって指摘できるような心の状態。そういうふうに仕上がっている人がプロっぽい感じがする。



先週と今週と、平日休みの日の夜に泳ぎにいった。以前からちょこちょこプールに行って泳いではいるけれど、続けていったのは久しぶり。いつもとにかく力を抜いて泳ごうとするのだけど、何往復かするとクッタクタになってしまうから、これはちょっと泳ぎ方が間違っているんじゃないかと思って少し調べてから実践してみた。

ある説によればクロールの基礎は「伏し浮き」というのにあって、これは文字通りうつ伏せになって浮かぶ技術なのだけど、これがなかなか難しい。参考にしたのはこのページ。http://www.page.sannet.ne.jp/yamato99/tech_fusiuki/fusiuki_6.html

人間が水に浮かぶとき、肺に空気をたっぷりふくんで浮袋にするらしい。だから浮かぶときの中心は「肺」にある。一方で重心は「へその下」にある。さらにぼくの下半身は陸上部時代のへたなトレーニングのせいで無駄な筋肉がたくさんついているので、重い。肺を浮袋にしても、重心はへそだし、足の筋肉は重いし、下半身が沈んでしまって「伏し浮き」なんてできやしない。

このとき、重心を肺に近づけるイメージ、というのをどうつかむかがカギになる。とにかく力を抜いて、それでいて腹筋を駆使して重心を肺の方にぐいっと近づけるようにして、腰を軽く、首を重たく感じるようにしてやってみると、ちょっと浮けた。これは大きな進歩だった。

その状態で「蹴伸び」をすること、そして「ズン・チャ・チャ」の6ビートでキックをすることの練習をしていくと、浮かび、軽めのキックを推進力にして進めることがわかる。これに水を掻く手を加えると、驚くほどススムススム!

ランニングをするときも、上半身を少しだけ前傾させて重心を前に出し、頭をナナメ上に釣り上げるようにして走るようにすると力まず進めるという節がある。そう考えると泳ぐことと走ることって一緒なんじゃん。と、これまで長いこと走ったり泳いだりしてきて初めてつながった。そしてそれは冒頭の心の状態とカラダの姿勢にも通ずるような、そんな気がする。

半年ほど前だが、以前の職場の研修で不審者が襲ってきたときに子どもをどうやって守るか、というのの、抜き打ちの実演研修をやったことがある。施設内に立ち入って刃物を振り回してきた場合、サスマタなどをつかって押さえつけ、モノを投げつけ、バランスを崩し、戦意を喪失させ、無力な状態にするしかない、と教わった。もちろん、子どもを守らなければならない、とはいえ、そんな暴力の状態に自分を切り替えることができるか?そんなに仕上がってるか?と、かなりその時はショックだった。そんな心とカラダの状態って、異常なのか、それとも、ゆったりとしたよどみない動きを生む姿勢は、突発的な暴力状態にも切り替えることができるようになるんだろうか。

走るのも泳ぐのも、あとはなにかに取り組むにも、暴力状態に切り替えるにも、「身体を楽に動かすための姿勢」というのがあって、それはいつでも重心を動きたい方向に傾けるための準備された姿勢なのだろうということ。それは先日教えてもらったヨガについてのテキスト(「形、中身、神」)で書いていることにもつながる。

文脈をよみ、流れるような身のこなしができるような「仕上がった状態」みたいなのって憧れる。












2015/05/01

なんかよくわからない感じ、戯れの中で見つかるカタチ

タイにいる友だちとスカイプで話し込んだ。1時間くらいで要件だけ済ませることになるかと思ったら、最近の仕事のことを話したり、恋人とどうだ、とか、これからどうやって働くか、とか、そんな話をしてたら0時を回っていた。

その友だちは、なんかよくわからない「感じ」を共有できる貴重な人だ。言葉が意味通りに伝わりあってるわけでもなく、録音して書き起こしたらこれなに言ってるか全然わかんないよな、っていうような、そうやって言葉をまばらに配置して、互いの頭の中で星座を描くみたいに点と点を結んだり解いたりして遊ぶ。遊ぶ中で、あ、これで大丈夫だ、やっぱそうだ、という何かよくわからない「感じ」を確かめていける。


モノゴトを作ろうとするとき、目標を決めて、狙いを定めて、戦略を作っていく仕事の仕方と、なんかよくわかんない「感じ」をふわふわした言葉や身の回りのものを触って確かめながら作っていく仕事の仕方と、大きく2つある気がしてる。

人との付き合い方も、上司や同僚と戦略を作って競合と戦うようなやり方と、仲間とともによくわからない「感じ」をシェアリングしながら生み落していくようなやり方と、分けられる。

もちろん、それはスペクトラムで、仕事となれば極端にどちらかに偏るとしたらそれはそれで問題がある気がする。

「感じ」の共有から生み落とされるものを仕事にするのは容易じゃない。ぼくにはまだまだそれでご飯を食べられるほど美しく生きていない。でも、面白くて興奮することはその「感じ」からしかやっぱり生まれないし、それはなにもないところから突然現れるものじゃなくて、地下水脈が通ったところに湧き上がるんだと思う。それが人との言葉とイメージの戯れの中で、カタチをもち、物語になるのだと思う。そうだと思ってやっていけるかどうか。わからないけど希望はある。

2015/04/21

ワンピースづくり、きかない見通し、ふりしぼる勇気

伊勢丹で働きながら、ちょこちょこ他の仕事もやっていきたい!ということで2015年度第1弾は、中山晴奈さんがディレクターを務める食とものづくりスタジオ「FERMENT」にて、ワンピースをつくるワークショップでした。FORM ON WORDSで一緒の竹内大悟さんとつくったものです。

これは見本です。


ほぼ一日がかりで、生地を選び、竹内さんがつくったパターンに添って裁断し、縫製する。そのなかで、幅や丈、アクセントになっている切り返しのギャザーもしくはタックのかたち、襟の仕上げ方など、いくつかの選択肢の中から、自分に合ったシルエットのワンピースをつくっていく。

参加者の皆さんの中には、中学校のときの家庭科の課題でズボンやエプロンをつくったときにうまくいかなかった想い出が残っている方も多く、そのトラウマと向き合いながら制作を進めていっていました。ぼくは昨年の夏のワークショップでやっとミシンと仲良くなれて、今ではだいぶ仲良しです。

いつも子ども向けにやっている企画だと「失敗してもいい」「トライアンドエラーが大事」ということを考えているけれど、服作りとなるとそうはいかないところが面白い。雑になってしまったぶん、その文字通りのしわ寄せが、服の雰囲気全体にあらわれてしまう。真剣で丁寧な作業が細部に宿ることで、はじめて服に美しさが現れるのだということを、いつも思い知ります。



真剣にならざるをえない、自分が身にまとうための服。当たり前だけど、服はたいてい買ったものを着る。デザイナーがデザインし、パタンナーがパターンを引き、工場で縫製されたものを着る。それを着る人の姿が不格好にならないように、こだわりをもって作られたものを着ているのだと思います。

その服のはじまりをつくるデザイナーは、人々の服や身体への意識を敏感に察知して、着崩されてしまうことや、およそモデル体型とは異なる体型の人が着ることも含めて、それでも人がかわいさや楽しさやエレガンスを感じられるように、服をつくる。そのこだわりや誠意にあやかってぼくたちは服を着ている。

もちろんそうでない服の作られ方もたくさんあって、かわいい、素敵なモデルへの憧れをあらゆる方法で煽り、それと同質化させるほうに促す、ファッションのファシリテーションのあり方のほうがむしろ主流だと思います。それによって「モテ」「非モテ」の分類が生まれ、自分を「非モテ」に分類してしまう特に男子たちの気持ちとかよくわかるし、その劣情はまた新しいエネルギーになると信じてなんかしたいと思っています。がまぁその話はまた別のところで。



このワークショップでは、服の作り手になって、その立場を体験する。服を着る人の気持と、作る人の気持ち、今の社会では分離してしまったこの2つの気持ちを一時に経験することになる。プロがつくった服はゆがんでいるわけがないのだけど、服はやわらかい布でできているし、裁断のやりかたや縫い方次第でゆがんでしまうし、不格好になってしまう。繊細な布は失敗するたびにくずれていく。失敗はなるべくならしないほうがいい。

さらに言えば、初心者には、パターンからできあがりを想像することが難しい。ぬいしろ、できあがり線、ステッチの線など、いろんな線が重なっている。裁断は縫製を見越してやらなければならないし、縫製はできあがりを見越してやらなければならない。小さな1つの失敗がつぎのゆがみを生む。見通しの効かないまったくはじめてのことで、それでも自分が着るものがかわいくて素敵なものであったらいいなという希望をもって、ひとつひとつ丁寧にやっていくしかない。

失敗が怖くなってしまい、怖気づいてしまうところをどうにか乗り越えてつくっていく参加者の方々の勇気を振り絞る姿を応援するのがぼくの仕事で、完成したときの、ほっとして、嬉しそうな表情には、しびれるような感動がありました。



こちらのワークショップは来月も再来月も開催を予定しております。夏に向けてえいやっと制作されてみてはいかがでしょうか〜?





2015/04/11

言い方、快不快、時すでに遅し



「いや、別にいいんだけど、「言い方」ってあるじゃん」

という言葉はよく聞くけれど、そのとおりで、言い方によって相手を快にも不快にもする。ぼくは無自覚に相手を不快にするような言い方をしてきた20代前半までを過ごしてきたと思うので、気をつけるようにはしているけれど、なかなかにその悪い癖は抜けない。

「言い方」によって相手を心地よくする、というのは、参加する人を創造的な気分に変えるワークショップのファシリテーションの基本の一つで、それを日常生活でもできるようにしておかないと、悪い癖が本番で出てはこまる。まして、相手が子どもならなおさら。

普段から人を見下したような言い方をしていると、たとえ仕事がキレッキレだったとしても、次第に信頼を失ってしまうし、自分が何か決定的なミスをしたときに、誰も味方がいなくなってしまう、というのはよくある話で、これを実感していないひとが説教されたとしても「いやでもぼくは失敗しないしなぁ」としか思っていなかったとして、それはそれでやばいというか学びのなさが貧しいなぁと思う。

ぼくには幸いにも、「言い方」について注意してくれた人たちがたくさんいた。でもその当時はよくわかっていなかった。今ならわかるのだけど、時すでに遅し、ってやつで、せめて当時注意をしてくれた人たちに報いたいという想いで仕事をがんばろうと思う。

2015/03/23

あ、また「理不尽」か。

「社会にでたら理不尽なことをたくさん経験しなきゃいけないんだと思うと、怖くて足がすくむ・・・」みたいなことを大学生の友人が言っていて、そりゃあそうだよね、と思う。ぼくも何度か理不尽なことを経験したし、よもや信頼していたものが理不尽さに姿をかえることもしばしばあった。

「未知のものやわからないことを前に、どう見通しを立て、行動するか」ということが大事、みたいなのはよく言われることだけど、「未知」とか「わからないこと」ってどことなくロマンチックで魅力的なものだ。たとえばこれを「理不尽さを前に、どう見通しを立て、行動するか」と言い換えたら、とたんに現実味が出てこないだろうか。

「理不尽さ」って、責任をなすりつけられることとか、根拠もわからないまま無視されることとか、いろいろだと思う。それってやっぱ超怖いし、嫌なものだ。でも同時に、何か新しいことをしようと思ったら付きまとうものでもある。なくていいものでもあり、ある種の条件でもある。理不尽さ。

どんな姿をとって現れるかも予想できないし、こんな感じかなと思ってたらそれを裏切ってくる。理不尽さは姿が見えないし、理性的だと思っていたものが理不尽さだったりするからさらにやだ。

でも、幾度となくそういうものに出会っていると、なんとなく、あ、またか。と、思えてくるのだろう。そうなれるまでが大変で、だから20代という時代は苦渋の時代なのだと思う。

がんばれ若造、というキャッチコピーがかつてあった。理不尽さを前に、ふんばれ若造、と、自分に向かって言いたい。